【静岡県 駿府編】「悲運の地 駿府城」深い因縁物語



【静岡県 駿府編】「悲運の地 駿府城」深い因縁物語

人質生活の始まり

人質生活の始まり 1542年12月26日に三河国(愛知県東部)の豪族である松平広忠の嫡男(跡取り)として岡崎城で生まれた竹千代(家康の幼名)は、駿河国(静岡県)の守護大名(土地の有力者)であった今川義元の人質になる。
その背景には戦国ならではの取引が関係している。父である広忠は岡崎城の城主であった。1547年に織田信秀(信長の父)の大軍が岡崎城に攻め寄せてくると、広忠は義元に助けを求めたのである。義元は救援部隊を送る代わりに竹千代を人質として引き取ることを条件としたのである。広忠はこれに同意し、竹千代を駿府に送った。
しかし、竹千代は義元の居る駿府には来なかった。いや、行くことが出来なくなったのである。

悲運の子

悲運の子(武田信秀の画像) 人質として駿府城へ行くはずだった竹千代。何故、行けなくなったのだろうか。それは、駿府へ向かう途中、ある男に「誘拐」されたのである。
犯人は田原城主の戸田宗光である。宗光は今川氏に背くことなく忠誠を誓っている家臣の一人であった。この日は竹千代の護送役を任せられていた。
しかし、宗光は竹千代を護送するどころか誘拐を企て、織田信秀に売り飛ばしたのである。この時に宗光が信秀から頂戴した金額は1億5千万円相当(銭千貫文)だったという。※松平記では百貫文と記されている。
竹千代を手にした信秀は、岡崎城主であり竹千代の父親でもある広忠を脅迫した。しかし広忠は、
「我が子を人質に取られたくらいで今川家に背くわけにはいかん。人質は生かすなり殺すなりお前の思うようにすればいい」
と言い、脅迫には屈しなかった。本心ではなかったであろうが、実に残酷な話である。

竹千代、人質となる

竹千代、人質となる(今川義元の画像) 1549年、義元は織田信広(信秀の息子)を捕えるのである。信秀は息子の引渡しを迫った。義元は引渡しの条件として竹千代との交換を要求した。信秀はこれに従い、竹千代は織田の人質から解放されるのである。
一度は岡崎城へ帰還するも直ぐに義元の遣いが来て、竹千代を駿府へ引き連れて行くのである。織田から解放されたかと思えば、今度は今川に囚われることとなったのだ。
その頃、岡崎城主であった父の広忠はすでにこの世を去っていた。竹千代が居なくなった岡崎城は、義元の支配下に置かれ義元の遣いが軍を引き連れ城を管理していたという。
その後、駿府にて過ごすこととなるのだが、人質といっても決して粗末な扱いではなかった。
家康は教育係に太原雪斎(義元の教育役でもあった)が就き、戦法や学問などの教えを受け、義元の姪でもある築山殿を嫁にもらうなど、厚遇を受けて育ったのである。将来、今川家の重臣として務められるよう丁寧に育てようとでも思ったのだろうか。

元信、岡崎へ戻る

元信、岡崎へ戻る 1555年、竹千代は静岡浅間神社にて義元が立ち会う下、元服(成人式)を行い、名を「松平次郎三郎元信」へと改めた。
元信は父である広忠の墓参りに行くため、岡崎城への一時帰宅を許された。久しぶりに岡崎城へと帰還した元信に今川の遣いがこう言う。
「こちらに滞在している間は本丸(偉い人が使う部屋)をご使用ください。」
しかし元信は、「私はまだ若僧で若輩者であるゆえ、二の丸(普通より少し良い部屋)で構いません」と言い、腰の低さを見せつけた。
この話は義元の耳まですぐに届いた。これに気を良くした義元は、自分の姪を元信に嫁がせた。名も「松平蔵人元康」に改め、後に桶狭間へと出陣するのであった。

元康の転機

元康の転機 遂に今川軍と織田軍との間で決戦が行われる。1560年5月、「桶狭間の戦い」である。
出陣した元康は佐久間軍が防衛する「丸根砦」を落とすよう命じられていた。丸根砦は言わば桶狭間の叩きにおいて最前線となる舞台であり、元康が率いる松平軍は特攻部隊に選ばれたのである。さすがは人質。ここぞという時の扱いはやはり冷遇であった。
しかし、これを見事に攻略し、佐久間軍に勝利するのである。義元にこれを知らせると、大高城にて休憩するよう命じられるのである。
だが「休憩」とは名ばかりで、次に織田軍が攻めるのは大高城と目星が付いていたのである。「また特攻部隊か・・・」そう思ったに違いない。
大高城に到着して間もなく、元康の耳に一通の知らせが届く。人生を大きく変える転機が訪れるのであった。

義元の死

義元の死 「元康様、義元様が・・・、義元様が信長に討たれました。」
桶狭間に出陣していた義元が、織田方の毛利良勝に討ち取られ死んだというのだ。
松平の家臣たちは大高城を捨て、すぐにでも岡崎城へと帰還するように元康に助言した。これを聞いた元康は、「いや、誠に義元が死んだかどうかは分からない。生きていれば事は複雑になってしまう」と用心深さを発揮した。
すぐさま忍びを遣いに出し、事の状況を調べさせたのである。帰還した忍びは、
「確かに義元は討ち取られ、今にも織田軍が大高まで攻めてこようとしています」
と知らせ、元康は岡崎城へと帰還するのであった。

岡崎城主と成る

岡崎城主と成る(松平元康の画像) 岡崎城を管理していた義元の遣いは敗戦を知るやいなや、軍を引き上げ駿府へと撤退していた。今川に放棄され、もぬけの殻となった岡崎城は元康のものとなったのである。 こうして今川の手を離れた松平軍であったが、独立はしなかった。義元の恩義に報いるためにと大義名分を掲げ織田家の所有する砦を攻め続けたのである。しかし大義名分とは表向きだけで、実際には軍の厚みを図っていただけであろう。 義元の跡を継いだ今川氏真(義元の息子)に敵討ちを促しながらも織田軍との攻防を続けていたが、氏真の覇気の無さに失望し遂に今川家と縁を切るのである。

清洲同盟

清洲同盟 自由の身となった元康であったが、当然ながら今川家と争うこととなる。そこで元康は、ある人物を訪ね清洲(愛知県清須)へと足を向けた。1562年1月15日に織田信長との間に締結された「清洲同盟」である。
水野信元の仲介により話はまとまり、織田家と松平家は同盟を結んだのである。これに伴い元康から「家康」と名を改め、完全に今川家から解放されることとなった。
これを機に家康は今川家の領地である遠江(静岡県大井川より西)へ侵攻し、今川家が滅亡すると22年に渡り、この地を統治するのである。

駿府城 駿府城
住所:静岡県静岡市葵区駿府公園1-1
お問合せ先:05-251-0016(案内係まで)
[見どころ]幼少期は人質として、幕府開国後は隠居の住まいとして使用した城である。

臨済寺
住所:静岡県静岡市葵区大岩町7-1
お問合せ先:054-245-2740(案内係まで)
[見どころ]幼少期の家康に戦法や教育を施した太原雪斎が住職を務めた寺である。

静岡浅間神社 静岡浅間神社
住所:静岡県静岡市葵区宮ケ崎町102-1
お問合せ先:054-245-1820(案内係まで)
[見どころ]1555年、竹千代から松平次郎三郎元信へと元服した場所である。

■東雲神社
住所:静岡県静岡市葵区有東木776
お問合せ先:054-298-2068(案内係まで)
[見どころ]家康が祀られている。

小梳神社 ■小梳神社
住所:静岡県静岡市葵区紺屋町7-13
お問合せ先:054-252-6660(案内係まで)
[見どころ]家康が隠居する際、駿府城の守護神を祀った場所である。

■清水寺
住所:静岡県静岡市葵区音羽町
お問合せ先:054-246-9333(案内係まで)
[見どころ]家康が再建し、天下泰平の祈祷を行った場所である。

蓮永寺 ■蓮永寺
住所:静岡県静岡市葵区沓谷2-7-1
お問合せ先:054-245-1536(案内係まで)
[見どころ]家康の位牌を安置し三回忌を営んだ寺である。

清見寺
住所:静岡市清水区興津清見寺町418-1
お問合せ先:054-369-0028(案内係まで)
[見どころ]信玄が駿河侵攻の際、家康が焼き払った寺である。その後、家康が再建している。