長宗我部元親【四国統一の覇者 土佐の男気物語】



長宗我部元親【四国統一の覇者 土佐の男気物語】

元親、土佐を統一

元親、土佐を統一 長宗我部元親は、1539年、長宗我部氏第20代当主である長宗我部国親の長男として土佐(高知)の岡豊城に生まれる。
初陣は吉良親貞と共に初陣した1560年の長浜での合戦であり、遅い初陣であったが元親は長浜において本山軍を襲撃した長宗我部軍に加わり、自ら槍を持って果敢に突撃するという勇猛さを見せた。この一戦で元親の武名は高まり、1560年に父である国親が他界すると家督を継ぎ、長宗我部氏第21代当主となった。
1568年に土佐中部を支配下に置くと1574年には土佐中村の一条兼定を豊後(大分)へ追放し、翌年に一条氏と四万十川にて戦うがこの合戦に勝利し土佐全域を領地とした。
その頃、天下統一を目論む織田信長から臣従(傍で使えなさいという命令)の申し出があるがこれを拒むと信長は、長宗我部制圧に向け侵攻を開始しようとしていた。その矢先、本能寺の変で信長がこの世を去ることとなる。

生没:1539〜1599年(享年60才)
幼名:弥三郎、後に法名を雪蹊恕三と改める
通称:土佐侍従、姫若子、鬼若子

元親、四国統一へ

元親、四国統一へ 信長からの呪縛から解放されると、1582年には信長に従っていた十河存保と「中富川の戦い」で勝利し阿波(徳島)を支配下に収める。翌年、「引田の戦い」で十河存保の援軍として参陣していた仙石秀久に勝利し十河城を攻め落とすと讃岐(香川)は元親の支配下となった。
四国統一まで伊予(愛媛)を残すのみとなっていた。しかし、伊予の統一には予想以上に手間取った。河野通直を相手に戦うも毛利氏の援軍に阻まれ苦戦する。3月には恵良で激突し、4月には高山、5月から6月にかけては恵良、菊間で合戦を繰り広げた。
8月に新居浜を落とされるも翌月には攻撃を再開し、遂に12月、河野氏は元親に降伏することとなった。その後、伊予の豪族相手に戦いを繰り広げるも1585年の春までには西予(愛媛西部)の豪族などを降伏させ四国統一を成し遂げたのである。

秀吉への服従

秀吉への服従(豊臣秀吉の画像) 四国全土を支配下に収めた矢先、10万の大軍が四国を目掛けて侵攻して来たのである。1585年6月から秀吉が開始した「四国攻め」である。
秀吉は宇喜多秀家らの軍を讃岐(香川)へ、小早川隆景、吉川元長率いる毛利軍を伊予(愛媛)へ、羽柴秀長、秀次の軍を阿波(徳島)へと同時に派遣し、長宗我部氏の支配下にある城を相次いで攻め落としていった。
元親は反戦派の長宗我部氏家臣である谷忠澄の進言を聞き入れて同年7月25日に降伏し、阿波、讃岐、伊予を没収され土佐(高知)のみを残され、京都にて秀吉に謁見し臣従(傍で仕えること)を誓うのであった。
1587年に九州攻めに従軍し、「戸次川の戦」で長男の信親を失ってしまう。1590年、小田原攻めには水軍を率いて参陣する。
その後も2度に渡る朝鮮出兵に従軍し、1597年に土佐統治のための法典「長宗我部元親百箇条」を定めた。

息子への遺言

息子への遺言 1598年に秀吉がこの世を去ると後釜を狙って飛び出した家康の出現により、情勢が急激に不安定となる。その後、元親は伏見屋敷に滞在し、11月26日に徳川家康の訪問を受ける。年が明けると土佐に帰国した。
1599年になって間もなくして4月、病気療養のために京都へと向かい伏見屋敷に滞在する。23日には豊臣秀頼に謁見していた。しかし病は回復せず悪化するのみで、京都や大坂から腕に覚えのある医者が治療にあたるも回復の見込みは無く、死期を悟った元親は5月10日に盛親(四男で跡継ぎ)に遺言を残して5月19日にこの世を去った。享年61、病死で最後を遂げた。
盛親は元親の亡き後を継ぎ、秀頼に仕えることとなると大坂の陣では五人衆と言われ真田信繁(幸村)らと共に奮闘するも、家康率いる徳川軍に敗北しこの世を去ってしまう。勇敢な戦士は二代に渡り豊臣家への忠義を果たした。

史跡巡りで元親を辿る

若宮八幡宮
若宮八幡宮
住所:高知県高知市長浜6600
お問合せ先:088-823-9457(観光振興課まで)

元親が本山市の長浜城を攻める際、戦勝を祈願した神社である。その甲斐あって無事勝利を遂げた元親は、それ以来ここを出陣祈願の場所と決め以後、社殿を縁起の良い出蜻蛉式(でとんぼ)建築を施したとされている。
日本で蜻蛉(とんぼ)は「勝ち虫」とも言われ古来より縁起のよい物とされてきたことから出蜻蛉式にしたと言われている。
また、敷地内には5メートルの槍を持った「元親の像」が建てられている。

■長宗我部元親の墓
長宗我部元親の墓
住所:高知県高知市長浜天甫寺山
お問合せ先:088-823-9457(観光振興課まで)

遺言より遺骸は茶毘(火葬)に付され、遺骨を現在の場所に納めた。道路沿いには元親の愛馬で秀吉から拝領したとされる「内記黒」の墓もある。

戸ノ本古戦場
戸ノ本古戦場
住所:高知県高知市長浜
お問合せ先:088-823-9457(観光振興課まで)

1560年5月に元親が初陣を飾った場所、戸ノ本古戦場である。
浦戸湾を挟んで、東は長宗我部氏、西は本山氏が進出して睨み合っていた。元親の父である国親が、種崎城に送った兵糧を本山氏の兵に奪われ、怒った国親は長浜城を急襲した。
長浜城城主は朝倉に逃れ、本山茂辰に援護を要請し、長浜城奪還のため押し寄せた本山軍2千5百と長宗我部軍1千がこの場所で激突した。
「姫和子」と呼ばれていた元親は、このとき槍の使い方もまだ知らず重臣の秦泉寺豊後に「槍というものは、敵の目を突くものと心得られよ」と教えられての初陣であったが、20騎ばかりの兵を引き連れて勇猛果敢に奮闘し、本山軍を打ち破った。
また、現在は戸ノ本団地の公園に、当時の戦死者を葬った塚を示す石碑が建っている。

秦神社
秦神社
住所:高知県高知市長浜857-1
お問合せ先:088-823-9457(観光振興課まで)

元親を祭神に祀った神社である。社宝とされている「絹本著色長宗我部元親画像」は、国の重要文化財に指定されており現代に伝わる唯一の元親の肖像画である。現在は高知県立歴史民族資料館に保管されており、複製画が一般公開されている。

■雪蹊寺
雪蹊寺
住所:高知県高知市長浜857-3
お問合せ先:088-823-9457(観光振興課まで)

長宗我部元親を始めとする一族の魂を弔った寺である。元親の法名の由来となった場所でもある。長宗我部元親から「高福山雪蹊寺」と名を改めた。
四国八十八ヶ所第三十三番の札所であり、810年〜823年に弘法大師が開山したと伝えられている。寺は一時衰退していたが、月峰和尚を住職として元親が保護したことにより臨済宗妙心寺派(仏教のひとつ)に改められた。
また裏手の山は戸ノ本で戦った本山氏が「長浜城」を構えていた場所でもある。

浦戸城跡
浦戸城跡
住所:高知県高知市浦戸
お問合せ先:088-823-9457(観光振興課まで)

九州征伐後の1591年に岡豊城から移住した城跡。また長宗我部家最後の居城でもある。
山内一豊が高知城を築くにあたり、浦戸城の石垣などを取り壊して運んだと言われており、石垣の一部と二ノ丸付近に三条の堀切を残すのみであるが、古城としての面影を確かめることが出来る。
現在「桂浜荘」と「坂本龍馬記念館」の建っているあたりが、本城があった場所となる。

■浦戸港
浦戸港
住所:高知県高知市浦戸
お問合せ先:088-823-9457(観光振興課まで)

元親はこの港を水軍の本拠地としており、秀吉の命による小田原征伐や朝鮮出兵もここから出陣していった。山内一豊の時代になると軍事的な重要性は薄くなり、漁港としてや上方や諸国への連絡港となった。参勤交代が陸路となるまでは、船団の出発地点として活用された港である。

■岡豊城跡
岡豊城跡
住所:高知県南国市岡豊町八幡
お問合せ先:088-862-2211(民族資料館まで)

元親が生まれた場所で、1591年まで居城とした場所である。国の指定史跡に認定されている。

岡豊別宮八幡宮
岡豊別宮八幡宮
住所:高知県南国市岡豊町八幡
お問合せ先:088-862-2211(民族資料館まで)

元親の信仰が深く、四国征伐の際に戦勝祈願を行った神社。出陣の際には必ず参拝に訪れ戦勝を祈願したという。長宗我部家ゆかりの品が何点か所蔵されている。

土佐に来たなら

土佐に来たなら やはり土佐を代表する人物といえば「坂本龍馬」。ドラマや漫画、小説などにも数多く取り上げられ高知の代名詞的存在と言えるであろう。 高知市上町には生誕の地を記す史跡も在り、「浦戸城跡」近くには坂本龍馬記念館が建てられている。元親の名所巡りがてら立ち寄ってみるのも面白いかもしれない。