歴史年表【天下統一までの足跡をザックリ見てみよう】



歴史年表【天下統一までの足跡をザックリ見てみよう】

時は戦国、下克上

時は戦国、下克上 時は室町、足利尊氏が築き上げた室町幕府が崩壊の一途を辿っていた。1476年以後10年間に及び世を混乱させた「応仁の乱」が勃発すると足利政権の影響力は乏しくなる。そこに野心を燃やし成り上がりを夢見る一人の男がいた。後に戦国大名となる北条家の礎を築いた「北条早雲」である。
当時の彼は名の知れた将軍でも名家の生まれでもない、ただの浪人であった。応仁の乱により情勢が乱れた世に「我こそが天下を収める」と名乗りをあげたのだ。これが俗に下の者が上の者に楯突く現象を示した「下克上」の誕生である。
下位が上位に従ってきた時代が終わり、全国各地で下克上現象が勃発した。戦国時代の幕が開けた瞬間であった。また、油売りという身分から美濃(岐阜)統一を成し遂げ名を轟かせた「斎藤道山」も下克上を代表する戦国武将の一人である。

乱世のど真ん中へ

乱世のど真ん中へ 戦国時代に突入し、全国各地で領地争いや政権争いが行われていた。後期に差し掛かると本格的に天下統一を目論む武将が目立つようになってくる。
1534年に尾張那古野(愛知県名古屋市)で産声をあげ、後に冷酷無情なその様から「第六天魔王」とまで呼ばれた男、「織田信長」である。
信長は14歳で初陣を果たすと、豊臣秀吉、徳川家康を家臣に従え天下統一を邁進していくのであった。後にこの三人は、共に尾張国出身でありながら天下統一を目指した戦国武将として「三英傑」と称されるようになる。

ザックリ年表「三英傑の足跡」前期

ザックリ年表「三英傑の足跡」前期
□信長1534年:織田信秀の二男として生まれる。
○秀吉1537年:木下弥右衛門の子として生まれる。
□信長1539年:6歳にして那古野城の城主となる。
☆家康1542年:松平広忠の長男として生まれる。
□信長1546年:元服(成人の儀式)し、織田三郎信長と改名。
☆家康1547年:信秀の人質となる。その後、今川義元の人質となる。
□信長1548年:斎藤道三の娘、濃姫(帰蝶)と政略結婚。
□信長1551年:父である信秀の死により、18歳にして家督を相続する。
○秀吉1554年:転職を繰り返した結果、信長に仕えることにした。
□信長1555年:織田信友を追放し、清洲城を獲得した。那古野城から転居。
○秀吉1555年:信長の身の回りの世話係を務めた。
□信長1556年:後継争いとなるお家騒動が勃発。「稲生の戦い」
□信長1557年:お家騒動の原因となった弟の織田信行を殺害する。
○秀吉1557年:兵の下っ端から頭へと昇格する。
□信長1559年:京都に出向き足利義輝に会う「信長初の京都上洛」
□信長1559年:織田信賢を攻め追放し、尾張国を統一する。「岩倉城の戦」
□信長1560年:今川義元と桶狭間で戦い勝利する。「桶狭間の戦い」
○秀吉1560年:織田軍の兵として桶狭間へ出陣。
☆家康1560年:今川軍として桶狭間に出陣。義元が負けて人質から解放される。
☆家康1560年:今川軍として桶狭間に出陣。義元が負けて人質から解放される。
○秀吉1561年:ねねと結婚。
□信長1562年:徳川家康と同盟を結ぶ。「清洲同盟」
☆家康1562年:信長と清洲同盟を結び、今川家と敵対関係になった。
□信長1566年:美濃国攻略の拠点として墨俣城を築城。
○秀吉1566年:信長の指令により「墨俣城」を短期間で築城する。
☆家康1566年:三河(愛知東部)の一向一揆を制圧し、三河統一を果たす。
□信長1567年:浅井長政と同盟を結び、妹のお市を長政の嫁にする。
稲葉山城の戦いで勝利。足利義昭を上洛させ15代将軍に据える。
○秀吉1567年:西美濃三人衆の降伏に成功。稲葉山城の戦いで功績をあげる。

ザックリ年表「三英傑の足跡」中期

ザックリ年表「三英傑の足跡」中期
☆家康1568年:武田信玄と同盟を結び今川家を攻め、遠江(静岡西部)を獲得する。
☆家康1569年:遠江を攻めた事がきっかけで信玄との同盟が破棄される。
○秀吉1569年:但馬(兵庫)の隅山城主、山名祐豊を攻め但馬国を統一する。
□信長1570年:朝倉義景を攻めるが浅井長政の裏切りにより撤退する。
○秀吉1570年:信長の撤退戦で殿軍を務め功績をあげる。「金ヶ崎の退き口」
☆家康1570年:朝倉攻めに加勢するが撤退。姉川の戦いで信長の危機を救う。
※義昭1570年:信長の動きを抑制するため「信長包囲網」を形成する。
□信長1572年:武田信玄の京都上洛を阻止するため動き出す。
□信長1573年:信玄が三方ヶ原の戦いに勝利し、天下統一に危機が迫る。
□家康1573年:三方ヶ原の戦いで信玄に敗れる。
※信玄1573年:信濃駒場にて病死する。信長、家康、これにて危機を回避。
□信長1573年:一乗谷攻めで朝倉を滅ぼし、小谷城で浅井長政に勝利する。
□秀吉1573年:一乗谷攻めに出陣、小谷城の戦いで功績をあげ小谷城を貰う。
□信長1575年:長篠(愛知東部の西側)で武田勝頼と戦い大勝利する。「長篠の戦い」
☆家康1575年:武田軍に長篠城を攻められるが信長の助けを借りて勝利する。
○秀吉1575年:琵琶湖付近の今浜に長浜城を築城する。
□信長1576年:安土城の建築を開始する。岡部又右衛門が大工の指揮を執る。
□信長1576年:安土城の建築を開始する。岡部又右衛門が大工の指揮を執る。
○秀吉1576年:安土城の建築の縄張奉行に任命される。
☆家康1576年:遠江の犬居城を攻略。1575年には諏訪原城と二俣城を攻略している。
□信長1578年:中国地方を管理する総大将に秀吉を任命する。
☆家康1579年:信長に命じられ息子である松平信康を切腹させる。
○秀吉1580年:黒田官兵衛を傘下にし、長浜城から姫路城へ転居する。
□信長1581年:淡路(兵庫)を統一、伊賀(三重)を統一。
○秀吉1581年:淡路の岩屋城、由良城を落城させ。淡路統一に尽力する。
☆家康1581年:武田勝頼に奪われていた遠江の高天神城を攻め、奪い返す。
※勝頼1582年:信長に攻められ耐え切れなくなり自害。武田家が滅亡する。
☆家康1582年:信長の武田勝頼攻めに加勢し勝利すると、駿河(静岡)を貰う。
□信長1582年:明智光秀の裏切りにより本能寺にて命を断つ。享年49「本能寺の変」
○秀吉1582年:信長の敵討ちと称して明智光秀を攻撃し勝利する。「山崎の戦い」
※光秀1582年:信長を死に追いやるが、その直後に何者かに襲われ死亡する。

ザックリ年表「三英傑の足跡」後期

ザックリ年表「三英傑の足跡」後期
☆家康1582年:本能寺の変が起きた直後、伊賀から三河へと脱出する。「伊賀越え」
○秀吉1583年:前田利家を傘下にして柴田勝家と戦い、勝利する。「賤ヶ岳の戦」
☆家康1584年:織田信雄に協力し秀吉と戦うが決着せずに和平を結ぶ。
○秀吉1584年:家康、信雄と対決するが決着せず和平を結ぶ。「小牧長久手の戦い」
○秀吉1585年:関白となり大坂城を築く。四国、越中(富山)を統一する。
☆家康1586年:豊臣秀吉の妹である旭姫を嫁に貰う。秀吉の家臣となる。
○秀吉1586年:太政大臣となり、朝廷から豊臣の姓を与えられる。
○秀吉1587年:九州を攻めて島津義弘を服従させる。大坂城から聚楽第に転居。
○秀吉1588年:聚楽第に後陽成天皇を招き入れ接待する。刀狩令を発令する。
○秀吉1590年:北条氏政を討伐し、天下統一を成し遂げる。「小田原城の戦い」
☆家康1590年:小田原城へ出陣。五大老となり大阪城から江戸城へ転居する。
○秀吉1591年:千利休を切腹させる。指月城を築城して聚楽第から転居する。
○秀吉1595年:豊臣秀次(秀吉が関白に任命)を切腹させる。「秀次事件」
○秀吉1595年:豊臣秀次(秀吉が関白に任命)を切腹させる。「秀次事件」
○秀吉1596年:大地震により指月城が崩壊する。近くに伏見城を建てる。
○秀吉1598年:醍醐寺三宝院で花見を開く。数ヵ月後、伏見城にて病死する。
☆家康1599年:江戸城から伏見城に転居し、大阪城西の丸に転居する。
☆家康1600年:石田三成との戦いに勝利し天下統一を果たす。「関ヶ原の戦い」
☆家康1603年:征夷大将軍に任命され江戸幕府を開く。江戸城へ転居する。
☆家康1605年:徳川秀忠に征夷大将軍の職を譲り大御所となる。
☆家康1607年:江戸城から駿府城へ転居する。
☆家康1611年:豊臣秀頼(豊臣家2代目)と二条城で会見する。
☆家康1612年:キリスト教禁止令を発令。1629年に「踏み絵」が誕生する。
☆家康1614年:方広寺に設置した鐘の件で豊臣秀頼を脅す。「方広寺鐘銘事件」
※秀頼1614年:方広寺の一件で家康と戦うこととなる。「大坂冬の陣」
☆家康1614年:大坂城で豊臣軍と戦うが決着せず和平を結ぶ。「大坂冬の陣」
☆家康1615年:大坂城で豊臣軍に勝利し、豊臣家を滅ぼす。「大坂夏の陣」
☆家康1616年:駿府城にて病死する。享年75
※家康の死後、秀忠が2代目となり以後15代まで繁栄し、260年以上徳川の時代が続いた。