【山梨県 韮崎編】信玄の遺徳「棒道」を歩いて



【山梨県 韮崎編】信玄の遺徳「棒道」を歩いて

まずは「武田八幡宮」で参拝

まずは「武田八幡宮」で参拝 武田八幡宮は822年(平安時代)に創立され、武田家の初代である信義がこの地を治めるために氏神が祀られた場所であり、武田家の守護神(守り神)が祀られている。現在の本殿は1541年に信玄が再建したもので国の重要文化財に指定されている。
勝頼が死去する前には、北条夫人が戦勝を祈念して記した願文を有する古社である。また、「二の鳥居」に書かれている「武田八幡宮」の文字は、武田信玄の自筆と伝えられている。
武田家初代当主である源信義はこの場所(現在の武田八幡宮)で元服し「武田信義」となったのである。ゆえに武田家発祥の地として外すことのできない名所のひとつとなっている。

信玄の遺徳

信玄の遺徳 甲府市の釜無川にて行われた治水工事は信玄の生涯において大きな遺徳(功績)を残しているが、韮崎に築いた「棒道」もまた、信玄の土木事業を語るうえでは外すことのできないエピソードである。
信玄は騎馬軍の強化、知略ともに優れていたことで戦国最強の軍団と恐れられていたが、武力強化以外にも経済的政策にも力を入れていた。信玄の政策についていくつか例をあげると以下のようなことがある。
□治水工事(信玄堤など)
□隠し湯の整備(医療に薬効ありと判断したため)
□金山の開発(貨幣制度を確立した)
□商工業の保護
□甲州法度の制定
□狼煙台の設置(現代でいうインターネットのような仕組み)
□武田騎馬軍の強化(戦国最強と恐れられた)
□武田水軍の組織作り
そして、この「棒道」も信玄の戦略理念を感じさせる偉大な痕跡である。

戦わずして勝つために

戦わずして勝つために 当時、信玄の居城は躑躅が崎(山梨県)である。上杉軍との戦で最前拠点となっていたのが松代の海津城(長野県)であった。川中島の合戦が行われた場所である。敵である上杉軍の動向を逸早く察知したい信玄は、躑躅が崎(山梨県)と松代の海津城(長野県)を最短距離で結ぶ道路を造ればいいと考えたわけである。
その頃使用されていた街道は山を避けて作られていたため、グネグネとした道で遠回りをするほかなかった。(現在の国道20号線)
信玄は「戦わずして勝つ」と言われるほどの知将でもあった。この発想から考えても戦略家であることが納得できる。そして、行動力にも優れていた。信玄は、山梨と長野を結ぶ軍用道路の開通土木に取り掛かり、棒道造りを実行するのであった。

信玄の棒道

信玄の棒道 棒道は穴山村(韮崎市穴山町)または、若神子村(北杜市須玉町)を起点として作られたと言われている。
そこから渋沢村(北杜市長坂町)へ抜け、大八田村(北杜市長坂町)に到着する。次に白井沢村(北杜市長坂町)から小荒間村(北杜市長坂町)を経由して、小淵沢村(北杜市小淵沢町※山梨県と長野県の県境)の山間を通り、信州立沢村(長野県諏訪郡富士見町)に到着する。この通路を「信玄の棒道」または、「上ノ棒道」とも呼ばれている。
また、棒道には「中ノ棒道」、「下ノ棒道」が存在しており、計3つの棒道が通っている。だが、上ノ棒道が「信玄の棒道」だという説が濃厚とのこと。

知略の将

知略の将 言うまでもないが棒道は戦において大きな役割を果たした。
川中島で上杉軍と戦い甚大な被害を出すものの、結果的には信濃(長野)の領地をほぼ手中に収めることができたのである。
川中島5回目の合戦となる「塩崎の対陣」では合戦を避け、睨み合うだけで終わっている。この背景には上杉輝虎(謙信)と北条氏康との戦いがあった。上杉は幾度も関東へ出兵し北条氏と戦っていた。信玄は北条氏と同盟を結んでいる仲(甲相同盟)であったため常に上杉の背後を脅かしていたのは間違いない。
また、棒道を開通させることにより上杉の動向を観察したり、戦への対応が迅速に行えたのは間違いないだろう。

棒道と西上作戦

棒道と西上作戦 上杉だけではなく、徳川家康との戦いにおいても棒道は効果を発揮する。1572年に行われた西上作戦(京都上洛)の時である。
10月3日、信玄は甲信連合軍と北条の援軍を加えた大軍(2万2千人)を引き連れ甲府を出発する。八ヶ岳山麓の棒道を通過して信州街道(秋葉街道)から青崩峠(静岡県浜松市と長野県飯田市の堺)を越えて遠江(静岡西部)の北へと向かい、この道のりを7日で渡りきった。
信玄は犬山城を出て4月末日、二俣城の攻撃を開始した。その結果、二俣城の主である中根正照を人質とし、家康に中根を引き渡すと同時に徳川軍は浜松城へと全軍を引き上げることとなる。
同年12月12日、信玄は軍を引き連れ二俣城を出発した。家康は信玄の西上(京都へ進行する)を阻止する為に織田の援軍と徳川軍を引き連れて浜松城を出発する。武田軍が通過すると予想される都田、金指(浜名湖)付近で待ち伏せしていた。
ところが、信玄は西へは向かわず、信州街道(秋葉街道)を南へと向かったのである。その方向には家康の居城である浜松城があった。慌てた家康は浜松城に引き返し武田軍が攻めてくるのに備えた。

信玄の策略「三方ヶ原の戦い」

信玄の策略「三方ヶ原の戦い」 ところが武田軍は浜松城まで下る途中、姫街道(静岡県磐田と愛知県豊川を結ぶ道)を北へ向け浜松城を通り過ぎ、「三方ヶ原」(浜松市北区)へと進路を変えた。信玄は用心深い家康の性格を利用し、欺いたのである。家康は信玄の作戦に完全に乗せられてしまった。
これに気づき慌てた家康は織田の援軍と徳川軍を引き連れて武田軍を攻めるが、向かい討ちに合う形となり退却を余儀なくされた。
信玄は家康が退却すると西へ軍を進め京都を目指した。しかし突如進行は停止し、信濃(長野)へと引き返すのである。1573年のことだった。
もとより患っていた病が悪化したのである。駒場(長野県伊那)にて回復を待つが、とうとう力尽き息を引き取るのである。享年53歳、京都を前にして信玄はこの世を去るのであった。

武田八幡宮
住所:山梨県韮崎市神山町
お問合せ先:0551-22-1111(観光協会まで)
[見どころ]二の鳥居・本殿・武田発祥の案内板

願成寺
願成寺
住所:山梨県韮崎市神山町
お問合せ先:0551-22-3118(案内係まで)
[見どころ]武田家始祖である信義を弔った場所である。

棒道
棒道
住所:山梨県韮崎市穴山町、または北杜市須玉町(長坂町)
お問合せ先:0551-42-1351(商工課まで)
[見どころ]信玄が開通させた軍用道路である。小荒間の関所跡がある。

新府城跡
新府城跡
住所:山梨県韮崎市中田町
お問合せ先:0551-22-1111(観光協会まで)
[見どころ]武田家最後の城

宗泉院
住所:山梨県韮崎市円野町上円井
お問合せ先:0551-22-1111(観光協会まで)
[見どころ]建物の周辺は山本勘助(武田軍の名将)の領地だったといわれ、川中島の合戦で勘助が戦死したことを知り領民が供養塔を建てた場所である。