武将にまつわる「深イイ話」と「辞世の句」


武将にまつわる「深イイ話」と「辞世の句」

難しく捉えずアニメ感覚で

難しく捉えずアニメ感覚で マンガ感覚で…、なんて言ったら歴史通の方々から叱責を預かるかもしれないが、軽視して、などと言っているわけではない。
歴史と言ってしまえば年号や城の名前、武将の名前や幾多の登場人物など、少しばかり難しく考えてしまいがちである。だが、そういったものは取り払って、まずは歴史散策の入口となる「きっかけ」が何か欲しいところだ。
その後からでも年号や、事の成り行きなどを探っていけば少しは歴史への入口が広くなるのではないだろうか。近年では、戦国武将を取り上げているアニメや娯楽施設などが多数存在し、コスプレなどを趣味としている歴史マニアまで増えてきている。
私がここで、コスプレやアニメについて語っても微塵も面白くないであろうから、武将にまつわる逸話をいくつかご紹介させていただきたいと思う。

秀吉の下積み時代

秀吉の下積み時代 秀吉がまだ木下藤吉郎と名乗り、織田信長に仕えて間もない頃の話である。
その頃の藤吉郎の仕事は信長の草履取りであった。草履取りとは、主人の草履を管理する仕事で、旅先に予備を持ち歩いたり出先で脱いだ草履を見張っておくなど、現代では少し考え難い職種である。
ある雪の夜、信長が訪問先の用を終え外に置いてあった下駄を履くと温かくなっていた。「さては貴様、俺の草履に腰掛けていたな、この野郎」と怒って藤吉郎を杖で打ったが、藤吉郎は頑として「私は腰掛けてなどおりません」と言い張った。
信長が「草履が温かいというのが何よりの証拠じゃないか」と問い詰めると藤吉郎は、「今夜は寒空なので足が冷えていらっしゃるだろうと思い、背中に入れて温めておきました」と答えた。
すかさず信長は「信じると思うか?証拠を見せよ」と問い質すと、藤吉郎は衣服を脱ぎ、背中にくっきり付いた下駄の跡を見せたという。信長は感心し、すぐさま藤吉郎を草履取りの頭へと昇格するのであった。

現世にも活かせる信玄の教え

現世にも活かせる信玄の教え これは甲斐の虎と恐れられた猛将、武田信玄にまつわる話である。信玄が口々に言っていた事がある。それは、「戦に勝つということは、五分を上とし、七分を中とし、十分を下とする」という言葉である。
家臣の一人がこれについてその意味を尋ねたところ、「五分の勝ちであれば今後に対して励みの気持ちが生じ、七分の勝ちなら怠ける心が生じてしまう。そして十分、つまりは完璧に勝ってしまうと敵を侮り、驕(おご)りの気持ちが生まれ身を滅ぼしてしまう」と説いたという。
歴史から見ても信玄は大勝利を望むような戦はしていなかった。生涯のライバルである上杉謙信は信玄を高く評価し、「いつも自分が信玄に及ばぬ所はこういう面だな」と悟ったという。
要するに、多くを求めずかと言って怠けず驕らず身を滅ぼさぬ程度に頑張ることが丁度いい、といったところだろうか。

政宗と秀吉、そして猿

政宗と秀吉、そして猿 豊臣秀吉は大きな猿を一匹飼っていた。諸大名が秀吉を訪問してくると、部屋までの通り道に猿を繋いでおいた。そして猿は歯をむき出して諸大名に飛びかかった。その時の様子を蔭から覗いて楽しむといういたずら癖があった。秀吉のペットであるからもちろん誰も猿への手出しは出来なかった。
ある日、伊達政宗に秀吉からお呼びがかかった。これを噂に聞いていた政宗は病と嘘をつき城へは行かず、その猿の世話役を金品で買収し密かに猿を預かることに成功した。
やはり猿は政宗にも歯を剥き出しにして飛びかかろうとするのだが、政宗はそのたびに鉄扇(鉄の扇子)で嫌と言うほど猿を打ち仕付けを繰り返した。猿を手懐けたところで世話係へと返した。
しばらくして秀吉からお呼びがかかった。秀吉は猿を廊下につないで今か今かと政宗の驚くさまを想像しながら訪問を待っていた。
政宗が城に着き廊下を通ると猿はガタガタと震えだし、その場にうずくまってしまったという。政宗の手には「鉄扇」がキラリと光っていた。
これを見た秀吉は、「なんと…、猿でも恐る独眼竜なのか」と、ため息を漏らしたという。

敵に塩を送る

敵に塩を送る これは上杉謙信と武田信玄にまつわるエピソードである。二人は生涯のライバルとしても有名であるが、戦国時代のど真ん中、二人が悶々と争っていた頃の話である。
今川氏真が北条氏康と手を組んで、武田家の領地に塩を搬入することを禁止した。そのために甲斐(山梨)、信濃(長野)、上野(群馬)の住民は非常に困った。この噂を聞きつけた謙信は、信玄へ次のような手紙を送った。
「近隣の武将は貴殿の国に塩を入れるのを差し止めているという話を聞いた。これは誠に卑怯なやり方である。正面からあなたと戦う勇気が無いからでしょう。私は何度でも貴殿と戦い決着を付けたいと思っているゆえ、塩はどんな事をしてでもお届け致す。必要なだけ申し付けてくだされ。もし高値で送るような商人がいたら、この謙信が責任を持ってその者を厳重に処罰する」
信玄や武田家の重臣たちは謙信の態度に感銘を受け「敵にしておくには勿体無い」と口を揃えて言ったという。そして約束通り、謙信の領国である越後(新潟)から信玄のもとに大量の塩が届いたという。

武将にまつわる辞世の句

辞世の句とは、この世を去る間際に残した句(言葉)のことを言う。戦国武将にも当然ながら死期はある。そこで武将にまつわる「辞世の句」をいくつかご紹介させていただきたいと思う。

明智光秀生没:1528〜1582年 明智光秀 生没:1528〜1582年
辞世の句【順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元】
解釈:間違ったことはしていない。全ては心のままにやった事だ。55年の夢から覚めてこれから新しい人生が始まるのである。我が心を知らぬ者は何とでも言えばいい。この身も惜しくない、名も惜しくない。

朝倉義景生没:1533〜1573年 朝倉義景 生没:1533〜1573年
辞世の句【七顛八倒 四十年中 無他無自 四大本空】
解釈:苦しみもがいた40年の生涯であったが、結局、他もなく自もなく空しいものであった。

足利義輝生没:1536〜1563年 足利義輝 生没:1536〜1563年
辞世の句【五月雨はつゆかなみだか時鳥 わが名をあげよ雲の上まで】
解釈:降りしきる五月雨は露だろうか、それとも私の涙であろうか。ホトトギスよ、どうか私の名前を天高く上まで広めてくれ

石田三成生没:1560〜1600年 石田三成 生没:1560〜1600年
辞世の句【筑摩江や 芦間に灯すかがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり】
解釈:筑摩江(琵琶湖東北端)にいる私。芦の間に燃えているかがり火(焚き火)がやがて消えていくように、我が命も直に燃え尽きてしまうのだな。

上杉謙信死没:1530〜1578年 上杉謙信 死没:1530〜1578年
辞世の句【極楽も地獄もともに有明の 月ぞこころにかかる月かな 極楽も地獄も先はありあけの 月の心にかかるくもなし 四十九年一夢の栄 一期栄花一盃の酒 四十九年夢中酔 一生栄耀一盃酒】
解釈:己の四十九年は一眠りした間に見た夢のように儚い出来事だった。この生涯で極めた栄光も結局は一杯の酒のようで二杯目は無かった。

島津義弘1535〜1619年 島津義弘 生没:1535〜1619年
辞世の句【春秋の花も紅葉もとどまらず 人も空しき関路なりけり】
解釈:散る花、紅葉を敗北した自分自身に重ねた句である。関路とは退路の事をいい、関ヶ原の戦が彼の生涯に与えた影響が大きかったことが伝わってくる。

武田信玄 生没:1521〜1573年
辞世の句【大ていは地に任せて肌骨好し 紅粉を塗らず自ら風流】
解釈:此の世は、世相(世の中の流れ)に任せるものだ。その中で自分を見出し、死んで行く。見せ掛けで、生きてはいけない。生きるのは本音で生きることが、一番楽である。

伊達政宗 生没:1567〜1636年
辞世の句【曇りなき心の月を先立てて 浮世の闇を照らしてぞ行く】
解釈:我は騒乱の多い暗い世の中が平和になることを願いながら、雲にさえぎられない月のように澄み切った心で先立ちます。

豊臣秀吉 生没:1536〜1598年
辞世の句【つゆとをち つゆときへにし わかみかな なにわの事もゆめの又ゆめ 露とちり雫と消える世の中に 何とのこれる心なるらん】
解釈:今思えば朝露が消えるようにアッという間の一生だった。我が人生は夢の中で夢を見ているような、儚いものであったことよ。