【滋賀 長浜偏】羽柴の影を追って近江「長浜城」



【滋賀 長浜偏】羽柴の影を追って近江「長浜城」

越前攻略

越前攻略 1567年、美濃(岐阜)を支配下に抑え、斎藤氏を滅亡させ岐阜城を手中に収めた織田軍は、いよいよ京都上洛(京都へ進出)が本格的なものとなってきていた。
1570年、越前(福井)への侵攻が開始すると越前の入口に位置する金ヶ崎城を落とすのは必須条件であった。敵は朝倉義景、越前を収める有力大名である。
金ケ崎城を攻略した矢先、思わぬ知らせが信長のもとへ届く。これまで同盟を結んで戦ってきた浅井長政が敵方である朝倉氏に寝返ったのである。これにより織田軍は長政に後方を取られ退却を余儀なくされた。
退却戦は危険度が増すうえ、とても困難を極める戦いとなるため信長は危機感を募らせていたという。その中でも最も至難とされる「殿軍(軍の最後尾に位置して戦う)」に木下藤吉郎(豊臣秀吉)が名乗り出たのである。

藤吉郎の作戦

藤吉郎の作戦 藤吉郎(秀吉)にとって「殿軍」を務めるということは半ば死を意味していた。押し寄せてくる大軍に少人数の兵で交戦しながら本体を逃がさなければならない。要は追ってくる敵軍を足止めして時間稼ぎをしなければならないのである。
4時間を稼げれば信長が逃げきれると踏んだ藤吉郎は、身を震わせながら作戦に取り掛かる。
1200の軍を3つに別け対応するという苦肉の策であった。
まず一陣に木下小一郎(後の豊臣秀長)が指揮を執る300人の兵を金ヶ崎城に配置させ、城には本体が居るかのように思わせるため旗や印を数百にも並べ立て、200人を鉄砲隊として構えさせた。
二陣には藤吉郎が300人の兵を率い、信長の逃げ口である若狭街道沿いから五町(500m)ほど離れた高処にて待ち構えた。ここにも旗や印を並べ立てた。
三陣には浅野弥兵衛(後の長政)が600人の兵を従い二陣より十町(1km)ほど離れた場所で待ち構え、ここにも旗や印を並べ立てていた。
旗や印を立て並べることで1200人ほどしかいない軍を大軍に見せかけようとしたのである。

金ヶ崎の退き口

金ヶ崎の退き口 およそ6千余りの兵を従えた朝倉軍が金ヶ崎城を取り囲んだ。すかさず一陣の鉄砲隊は威嚇射撃を始める。
しかし、朝倉軍はなかなか攻めてはこなかった。無数に立ち並ぶ旗や印を見て浅はかな行動を控えたのである。かたや城内には三百の兵、武者震いが止まらなかったであろう。そうしている間にも一陣が城に構えて5時間が経過していた。
小一郎は意を決して300の兵を率いて城を飛び出し、五町(500m)離れた二陣のもとへと駆け出していく。この時、一陣の兵は身軽な装備で一目散に二陣を目指したという。一陣と合流した藤吉郎は十町(1km)離れた三陣を目指し後退を続けた。
しかし雪崩のように追ってくる敵にもはやこれまでかと思った瞬間、東南の山から百雷のように轟く音が聞こえてきたのである。

藤吉郎の功績

藤吉郎の功績 それは援軍の鉄砲隊であった。無事に佐柿(福井県三方郡)へと逃げ切った信長が援軍を送ってきたのである。
これにより三陣と合流した藤吉郎は山に火を点け応戦することを決意する。この時すでに300人の兵を失っていた。
鉄砲隊の射撃により追っ手は攻めあぐんでいた。しかし、後退しようものなら敵方は直ぐにでも襲撃してきたであろう。山火事は陽が落ちるまで燃え盛っていたが夜になると次第に火の勢いが収まってきた。
真っ暗闇の中、残り火で照らされている街道沿いを見た藤吉郎は「今だ」と言わんばかりに全軍を率いて撤退を始める。残り火で照らされた街道沿いを駆け抜けながら山城国(京都の南)を目指した。1570年5月1日の夕方、大原と八瀬の山あいに到着した兵の数は600人余りに減っていた。しかし、殿軍としての役目は充分に果たしていた。
同年5月7日、二条城大広間にて信長に仕える大名が参列するなか、功績を認められた藤吉郎は感状(賞状)を賜ることとなった。

羽柴と成る

羽柴と成る 金ヶ崎での撤退を余儀なくされた信長は2万5千の兵を従い再び近江へと進行した。狙うは朝倉と浅井の首であった。1570年6月28日、「浅井、朝倉軍」対「織田、徳川軍」の決戦である姉川の戦いが幕を開いた。この合戦で織田軍は勝利を収めると浅井、朝倉は撤退を余儀なくされた。
1573年、一乗谷攻め(福井県)に従軍し朝倉義景に勝利すると、藤吉郎は小谷城(滋賀県)への奇襲に備え横山城へと入り、浅井長政との戦いにおいて最前線を任せられたのである。この時「木下」から「羽柴」へと姓を変更している。
藤吉郎の任務は小谷城の小丸(部屋の名前)と京極丸(部屋の名前)を攻略することであった。

小谷城の攻略

小谷城の攻略 小谷城には浅井長政が率いる4千の兵が立て籠っていた。 京極丸に残存している兵は600人、藤吉郎は蜂須賀正勝(小六)らに正面を攻撃させ、自らは竹中半兵衛や加藤光泰らを率いて虎口からの突入に成功して見事攻略する。 また、京極丸への攻撃を悟られないように、小一郎(後の豊臣秀長)に多くの兵を付けて小丸を断続的(途切れ途切れ)に攻めさせるなどして陽動作戦にもぬかりはなかった。 城の麓から一斉に攻めなかった理由は、長政とともに本丸(殿様の居る部屋)にいる信長の妹であるお市の方(長政と同盟を結ぶ時に嫁がせた)に被害を加えないためであった。 京極丸を落とした藤吉郎は、次に小丸を攻め始める。小丸を守っていた浅井久政(長政の父)も抗戦するが京極丸を落とされた小谷城の防衛力は乏しく、浅井久政は自害するのである。 これにより任務を完了させると信長と合流し本丸を攻めようとするも長政は、お市の方と3人の娘(茶々、初、於江与)を信長に送り自ら命を絶ったのである。

長浜城の主と成る

長浜城の主と成る 近江の浅井長政、越前の朝倉義景攻めの功績を認められた藤吉郎は、北近江の領地を与えられ湖北(琵琶湖の北)にある今浜の地に城を築いた。与えられた領地は、浅井氏領の内、伊香郡、坂田郡、浅井郡であった。
それまで北近江の中心であった小谷から今浜へと住民も移動させた。要するに県庁所在地を移したのである。また、それに合わせて今浜の地名も「長浜」へと改名した。由来は、信長の一文字を取り「長浜」と名付けた。築いた城も「長浜城」となり、信長への気配りにも抜かりは無かった。
大谷吉継や石田三成を家臣として迎えたのもこの地であった。

長浜城 ■長浜駅
住所:滋賀県長浜市北船町1-5
お問合せ先:0749-62-4111(観光協会まで)
[見どころ]秀吉と三成の出逢い像・長浜駅前通り

■長浜城家臣団屋敷跡
住所:滋賀県長浜市南呉服町6-37
お問合せ先:0749-62-4111(観光協会まで)
[見どころ]屋敷跡を記す石碑・長浜地名起源歌碑

豊国神社 豊国神社
住所:滋賀県長浜市南呉服町6-37
お問合せ先:0749-62-4838(社務室まで)
[見どころ]御神馬の像・秀吉の肖像画・本殿・出世稲荷神社・秀吉遺愛の虎石・天満宮(加藤清正の像)

長浜城 長浜城
住所:滋賀県長浜市公園町10-10
お問合せ先:0749-63-4611(案内係まで)
[見どころ]長浜城歴史博物館・長浜城御馬屋跡

長浜城 知善院
住所:滋賀県長浜市元浜町29-10
お問合せ先:0749-62-5358(案内係まで)
[見どころ]小谷城から長浜城へと移す際、鬼門を守らせた寺院である。秀吉にゆかりのある品が拝見できる。

長浜城 ■長浜城下町
・北国街道(住所:滋賀県長浜市元浜町)
・秀吉ゆかりの茶亭門(住所:滋賀県長浜市元浜町11-23黒壁付近)
・大通寺(住所:滋賀県長浜市元浜町32-9)お問合せ先:0749-62-0054(案内係まで)
・大手門通り商店街(住所:滋賀県長浜市元浜町、大宮町)