織田信長【野望を追って戦国の世に夢見た天下布武】



織田信長【野望を追って戦国の世に夢見た天下布武】

【織田信長】この名前、誰でも一度は聞いたことのあるはず、戦国を代表する武将であることは間違いない。
49歳にして無念の死を遂げた信長の生涯は今もなお謎に包まれ、凛々しい出で立ちとその風貌は多くのファンを虜にして止まない。
怒涛のごとく戦国の世を駆け抜け、天下統一まであと一歩というところで明智光秀に討たれる。「本能寺の変」は史実上、歴史を揺るがした大事件として今もなお語り継がれている。
一体どんな武将でどのような生涯を送ったのか、謎に包まれたその歴史を追いかけてみるとしよう。

プロフィール

プロフィール 出身地:愛知県名古屋市
身長:160cm
血液型:A
生没:1534〜1582年(享年49才)
幼名:吉法師、三郎
別名:上総介
趣味:乗馬、鉄砲、食器集め、水泳、相撲
好きな食べ物:甘い物、塩辛い物

尾張の大うつけ者

信長は1534年、尾張の那古屋城(現在の名古屋城)で生まれ幼少期から変わった行動が目立つことから、「尾張のうつけ者」と呼ばれ町中の噂人となっていた。
腰に瓢箪(ひょうたん)をぶら下げ、いつも柿や餅を食べながら歩き、変わった服装を好んだり奇妙な行動を取ることから町の人には不思議がられ、その時代にはとても不釣合いな人物像だったことが分かる。
ちなみに「うつけ者」とは今で言う「バカ者」という意味である。ということは、大うつけ者とは大バカ者ということになるわけだ。
しかし、織田家の大切な跡取りであったため幼少期より大事に育てられていた。2歳の時にはすでに那古屋城の城主であったという。
父親からは可愛がられていたが、母親からは嫌われていたという話もある。まあ、それもそのはず。信長の行動には意義を唱える者も多かったという。
例えば、母乳を飲む際には乳母たちの乳房を噛み切ってしまったり、所構わず至るところで小便を撒き散らしたりととても行儀の悪い子であったという。

「天下布武」激闘、桶狭間の戦い

「天下布武」激闘、桶狭間の戦い 大うつけと呼ばれていた信長だが、26歳にして転機が訪れる。
1560年、尾張桶狭間(現在の愛知県豊明市)で休憩をしていた今川義元が率いる今川軍2万5千に対して、信長はわずか3千以下の兵を率いて奇襲をかけるのである。
激しい戦いの末、信長の家臣である毛利新介が今川義元を討ち取り織田軍は勝利をおさめるのだ。
その後、三河の徳川家康と清洲城(愛知県清須市)にて同盟を結び、尾張そして、美濃を統一する。これが、史実が示す「尾張統一」である。
その時に使用された印が「天下布武」の4文字である。信長といえば、この言葉がセットになって頭に思い浮かぶ。

うつけ者から天下統一へ

1568年、足利義昭を助けて京都へ上り、義昭を室町幕府の将軍にした。「足利義昭を奉じ上洛」である。そして畿内※1を制圧するのである。
(※1畿内とは、現在の奈良県と、京都府の南部、大阪府、兵庫県の南東部を表す。)
その後は、1570年に姉川(滋賀県長浜市)の戦いにて浅井長政を滅ぼし、1573年には刀禰坂(現在の福井県敦賀市)の合戦で朝倉義景を壊滅。1575年に長篠(現在の愛知県新城市)の戦いでは武田勝頼を破り、1576年から1579年にかけて安土城を築いた。
その後も1577年に信貴山城(現在の奈良県生駒郡)の戦いで松永久秀を自害に追いやり、三好などの対抗勢力を次々と滅ぼし天下統一を進めていくのである。

「是非に及ばず」信長、最後の時。

「是非に及ばず」信長、最後の時。 安土城を本拠地として天下統一があと一歩というところまで迫っていた。
そんな矢先の出来事である。1582年6月、毛利攻めに苦戦する羽柴秀吉(豊臣秀吉)を助けるため、明智光秀、細川藤孝に出陣命令を出し、自分は100名余りの護衛を付けて安土城から京都本能寺へと移動するのである。
その夜、信長が就寝中、家臣である明智光秀が率いる軍に奇襲をかけられるのだ。その数は1万と史実に記されている。
100名の兵と共に弓や槍を取って戦うも応戦しきれなくなると、信長自ら寺に火を付けて自害したという。
明智光秀の裏切りが引き起こした「本能寺の変」である。享年49歳、天下統一を目前にして織田信長最後の時であった。
本能寺炎上後、明智光秀は信長の遺体を探したが、どれだけ探しても見つけることは出来なかった。