【長野県 川中島偏】終わらない戦いの始まり



【長野県 川中島偏】終わらない戦いの始まり

川中島の戦い

川中島の戦い 上杉謙信の生涯の中で幾度の戦を交え、最大のライバルとして有名な人物が「武田信玄」であることはご存知であろう。この戦いの舞台となった場所が「川中島(長野県)」である。11年に渡り、北信濃(長野県の北部)の支配権を巡って5度の激戦を繰り広げられた舞台である。
第一次となる合戦が1553年に幕をきるのである。景虎(上杉謙信)と晴信(武田信玄)が初めて争うこととなる。

ことのはじまり「八幡の戦い」

ことのはじまり「八幡の戦い」 1553年4月、晴信は北信濃を攻略しようと信濃(長野)の守護代(管理人)であった村上氏の領地にある葛尾城を攻撃していた。攻撃を受け続けた村上義清は高梨氏を通じて景虎に助けを求めるのである。
翌月5月、信濃の兵と影虎からの支援(5000人の兵)を受け、再び晴信と戦うのである。現在の長野県千曲市にある八幡地区で戦ったことから、史実にはこの合戦が「八幡の戦い」と記されている。村上氏はこの戦いに勝利し葛尾城を取り戻すこととなる。
しかし簡単に諦める晴信ではなかった。同年7月に再び北信濃を攻めるのである。村上義清は塩田城へ避難していた。1ヶ月粘ったが村上義清は塩田城を諦め、景虎の領地である越後(新潟)へ逃げるのである。

第一次合戦「布施の戦い」

第一次合戦「布施の戦い」 1553年9月1日、村上義清が越後へ逃げてくると、これを知った景虎は自らが軍を率いて晴信の居る北信濃へと出陣するのである。
その戦場となったのが布施(現在の長野県篠ノ井)である。布施の戦いで武田軍の先鋒を破ると、武田家の支配下であった荒砥城(現在の長野県千曲市にある上山田地区)を撃破し、またも支配下である青柳城(現在の長野県松本市)を攻めた。
しかし晴信も黙ってはいなかった。荒砥城で長尾軍に夜襲を仕掛けるのである。これに気づき景虎は軍を八幡(千曲)に避難させ、村上義清と共に攻撃を仕掛けようとするのだが、村上が戦いを避けたため同月20日、景虎も越後へと帰還するのであった。
その翌月17日には晴信も軍を引き上げ自分の領地である甲府(山梨県)へと帰還するのであった。

第二次合戦「犀川の戦い」

第二次合戦「犀川の戦い」 次なる戦いは1555年、長野県の犀川(さいがわ)を挟んで行われた。決戦のきっかけは、信濃善光寺の国衆(地元の有力武士)であった栗田鶴寿が晴信に寝返り、善光寺平の南半分が武田家に占領される。これにより善光寺以北に居た長尾家に関係する豪族に晴信の圧力がかかるのである。景虎はこの事態を回避しようと善光寺を奪い戻すため出陣したのである。
景虎と晴信は犀川を挟んで200日にも及び対陣(向かい合って陣を構える)を続けた。1555年7月19日、景虎は犀川を渡り武田軍に挑むが戦は困難を極めた。これを見兼ねた駿河国(静岡県の中部)の今川義元は両者の仲裁を取り持った。
和解の条件として晴信には以北の領地を脅かさないこと、そして栗田鶴寿の居城である旭山城を潰すこと。それの見返りとして南信濃(長野の南部)が晴信の支配下となった。これにより第二次の合戦は終結するのである。

第三次合戦「上野原の戦い」

第三次合戦「上野原の戦い」 1557年2月15日、晴信は長尾氏の拠点地であった葛山城(長野市)を落とし、落合氏を滅ぼした。さらには高梨政頼(長尾氏の味方)の居城である飯山城に攻撃を仕掛けようとしていた。
しかし、長尾氏も攻勢を強めていた。同年4月18日には景虎自身が出陣し善光寺平に出陣していた。4月から6月にかけて北信濃の武田氏の諸城を落としていた。景虎は武田家の領地まで侵攻し善光寺平を取り戻すため7月には尼飾城を攻めるが武田軍は決戦を避け、景虎も深追いすることもなく飯山城(長野県飯山市)へと兵を引き揚げた。
その後8月下旬に「上野原」を舞台に晴信、景虎は合戦を行うが決着が着かず、9月に越後へ帰還した。晴信も10月には甲斐国へと帰国するのであった。

四次合戦の火種「小田原城の戦い」

四次合戦の火種「小田原城の戦い」 5回の決戦の中で最も大きな戦いとなったのが「八幡原の戦い」である。これには多くの死傷者を出し、両者ともに莫大な被害を受けることとなる。死者の数は7千人を超えたとも言われている。
事のきっかけは「小田原城の戦い」である。さかのぼる事1552年、北条氏康に敗れた関東管領である上杉憲政(義理の父)は越後へ逃れ、景虎に上杉氏の家督と関東管領職の譲渡を申し入れていた。1559年に景虎は関東管領職就任の許しを得るためその時代の将軍であった足利義輝のもとを訪れた。この内容を義輝は承諾し、景虎は関東管領になることを正式に許されるのである。1560年、大義名分(上杉憲政の仇討ちという戦う理由)を得た景虎は関東へ出陣する。関東の諸大名の多くが景虎に味方し、その軍勢は10万にも及んだという。これに気づいた北条氏康は決戦を避け、小田原城(神奈川県小田原市)に立てこもるのである。1561年3月、景虎は小田原城を包囲するが、守りが堅く困難を極めた。

長尾景虎から上杉政虎へ

長尾景虎から上杉政虎へ(足利義輝の画像) 北条氏康は、三国同盟を結んでいた武田信玄(1559年武田晴信から改名)に助けを求め、信玄はこれに応えて北信濃へと出陣し、信越国境(長野と新潟の国境)付近に海津城を築くのである。これは景虎を動揺させるための手段であった。
関東制圧を目指す政虎にとって信越国境(長野と新潟の国境)は軍を進めるルートとして重要な拠点であった。そのため、信玄の築いた海津城を潰して武田軍を撤退させる必要があり、後回しには出来ない事態であった。
景虎は小田原城の包囲を諦め、相模国鎌倉(神奈川県鎌倉)の鶴岡八幡宮で、上杉家の家督相続と関東管領職就任の儀式を行い、上杉憲政の「政」と生まれながらの「虎」の字を組み合わせ、名を長尾景虎から「上杉政虎」と改め越後国へと一時帰還するのであった。

八幡原「信玄の策略」

八幡原「信玄の策略」 1561年8月、政虎は1万8千余りの兵を率い越後を出発すると善光寺を通り、妻女山(長野市松代町と千曲市土口が境)に陣を張るのである。これに対して信玄は茶臼山(長野県下伊那郡)に陣を張り上杉軍を迎え撃つのであった。
政虎は5千の兵を善光寺に残し、1万3千の兵で妻女山に陣を張る。しかし決戦は起きず、睨み合いばかりが続いていた。しびれを切らした武田側の重臣(役職の高い部下)は信玄に上杉軍との決戦を勧めるのである。
信玄は、山本勘助と馬場信房に上杉軍攻撃の作戦を作るように命じるのである。作戦は「啄木鳥戦法」(キツツキが木をツツいて、出てきた獲物を捕獲する様子)と名付けられ、軍を二手に別けて攻撃するというものであった。

妻女山「政虎の機転」

妻女山「政虎の機転」 武田軍の作戦は、一つの部隊に妻女山で待機している上杉軍を攻撃させ、手薄になった上杉軍が山を降りて来たところでもう一つの部隊が待ち伏せし、1軍、2軍で挟み撃ちするというものであった。
1561年9月9日、夜も更けた頃、高坂昌信、馬場信房が率いる1万2千の武田軍が妻女山に向い、信玄率いる8千の軍は八幡原に陣を張り、降りてくる上杉軍を待ち構えていた。
しかし政虎は、海津城から上がる煙がいつもより異様に多いことに気づくのである。それは炊飯の煙であった。
「兵に腹ごしらえさせるとは何やら今夜、動きがありそうだな」とでも思ったのであろうか、政虎は武田軍の不穏な動きを察知するのである。政虎は軍を率いて密かに妻女山を下り、信玄が待ち構えている八幡原へと上杉陣を移動させたのである。「雨宮の渡し」である。
この動きを知るはずもない信玄は、上杉に攻撃を仕掛ける時を今か今かと待っていた。