関ヶ原に大集結【天下を支えた戦国武将ゆかりの地】



関ヶ原に大集結【天下を支えた戦国武将ゆかりの地】

後世に語り継がれる「関ヶ原の戦い」

後世に語り継がれる「関ヶ原の戦い」 世に知られる1600年、関ヶ原での大激戦。豊臣家の「五大老」を務めていた徳川家康と、「五奉行」石田三成との間で勃発した家臣同士の争いである。
秀吉の死後、豊臣家で日本の政務や軍事を執り行っていたのが、「五大老」「五奉行」と称される2つの官職に別かれた役人衆であった。要約してしまえば、豊臣家に忠義を貫き秀頼を担ぎ上げたい意向を示す三成と、政権を手中に収めて天下を取りたい家康との間で起きた「内部紛争」が発端である。
決戦開始のきっかけとなった事件が「直江状」でないかと私は思う。直江兼続が1600年に家康の家臣である西笑承兌に送った書簡(手紙)のことを指す。家康が上杉家へ忠告する内容を記した文書に兼続が返書した内容(直江状)があまりにも挑発的な文面であったことから家康を激怒させ、上杉討伐が決行される。
そのことで家康が大坂を離れるきっかけとなり三成をおびき寄せたことが原因と言えるであろう。
勝敗は東軍率いる家康の完勝で幕を閉じ、その後、大坂の陣で豊臣家が滅びると260年以上続く徳川の時代がやってくる。世に言う「徳川幕府」である。

関ヶ原に15万の大軍が集結

関ヶ原に15万の大軍が集結 北は奥州(宮城)から南は薩摩(鹿児島)まで、全国各地から関ヶ原に軍が集結された。過去に例を見ないことから「天下分け目の大決戦」などと称されることも多いが、15万の大軍が一箇所に押し寄せるとは余程の合戦である。
そこで、関ヶ原に関連した武将や大名を地域別にご紹介させていただき、いくつか選定してみた。史跡巡りの参考になれば幸いである。

関ヶ原古戦場跡
住所:岐阜県不破郡関ケ原町関ヶ原
お問合せ先:0584-43-1111(町役場まで)

奥州の覇者「伊達政宗」

奥州の覇者「伊達政宗」 仙台藩初代当主で幼少時代に右目を失明し、独眼竜の異名を持つ奥州統一を成し遂げた名将である。父である輝宗の策により家督を相続して以来、奥州の国人衆を次々と攻略し広大な勢力を築いたが、小田原攻めへの出陣が遅れ秀吉に咎められた結果、所有していた領地を没収されてしまう。
東軍に加勢しているが、関ヶ原には出陣していない。上杉軍の南下を防ぐことで徳川軍に対し間接的な役割を果たしている。
■主なゆかりの地:宮城県仙台市、宮城県宮城郡松島、宮城県柴田郡川崎町青根

越後の虎息子「上杉景勝」

越後の虎息子「上杉景勝」 長尾政景の息子であるが上杉謙信の養子となり、相続争いで北条家から来た養子の景虎を下し(御館の乱)上杉の家督を継ぐ。小田原合戦の後、会津120万石の主になると、豊臣家五大老の一人として名を馳せたことで知られているが、関ヶ原では西軍に加勢し、戦後は出羽米沢30万石に減封された。
■主なゆかりの地:福島県会津

六文銭の忠義「真田幸村」

六文銭の忠義「真田幸村」 六文銭とは、三途の川の渡し賃とされる冥銭で、地蔵菩薩信仰の教えにある六人の地蔵菩薩に渡す六道銭のことを言う。
本名は信繁である。生前に幸村と呼ばれた記録はなくこの名が使用されたのは後世になってからのことである。大坂夏の陣では赤備えの軍団を率いて家康の本陣に突撃し脅威を示すと、島津家の士に「真田日本一の兵」とまで言わしめたほどの勇将である。しかし力尽き安居天神の境内で休んでいたところ不意打ちにて戦死を遂げる。
関ヶ原には出陣せず、信州上田城において徳川秀忠率いる別働隊の攻撃を防いでいた。このため、秀忠の軍は関ヶ原に参陣することが出来ず、西軍に対し間接的な役割を果たしたと言えるであろう。
■主なゆかりの地:長野県上田市、長野県上田市真田町、長野県長野市

愛に生きた男、それを支えた傾奇者「兼続と利益」

愛に生きた男、それを支えた傾奇者「兼続と利益」 傾奇者の代表格で前田家きっての風来坊として「慶次郎」の通称でも有名な人物、前田利益である。戦には滅法強く、直江兼続を友と慕い、名馬松風にまたがり戦場を駆け回った豪将として有名ではないだろうか。
特に長谷堂城の戦いでは退却戦で奮闘する最上軍を支え、兼続を助けたことでも有名な人物である。
そして直江兼続は、上杉謙信、景勝に仕えた知勇兼備の名将として名高い。越後(新潟)坂戸城主の長尾政景の家臣である樋口惣右衛門兼豊の息子で1582年に直江家を継ぎ、山城(京都南部)守となる。
謙信の側近時代から才覚を現し、後に景勝の家老となる。徳川家康の上杉討伐を真っ向から挑んだ「直江状」は歴史的産物である。
兼続、利益は関ヶ原には出陣せず、長谷堂城にて激戦を繰り広げていた。西軍の大敗を知ったのは合戦後のことであった。
■主なゆかりの地:山形県米沢市

秀吉からの信頼を得た男「大谷吉継」

秀吉からの信頼を得た男「大谷吉継」 石田三成と共に豊臣政権の奉行職を務めていた有力人物である。秀吉からの信頼は厚く、三成と力を合わせ二人三脚で豊臣政権を支えてきたと言っても過言ではない。
関ヶ原の戦いでは三成との友情を重んじ西軍に加勢する。しかし、小早川秀秋の寝返りにより戦線が乱れると自ら命を絶つため自害するも、それに至るまで少ない兵で善戦を繰り広げた優将として名高い。
■主なゆかりの地:福井県敦賀市

主君への忠義を貫いた「石田三成」

主君への忠義を貫いた「石田三成」 豊臣家五奉行の一人として秀吉に忠義を尽くした人物である。近江(滋賀)石田村の百姓上がりで豊臣秀吉側近から台頭へと昇格、秀次失脚後は佐和山城主となり19万4千石を所領していた。
秀吉没後の1599年3月、前田利家がこの世を去ると朝鮮役で恨みを抱いた福島正則らに襲われ(暗殺未遂)、仲裁に入った家康の裁断で佐和山城に隠居した。
関ヶ原では西軍の指揮官となり奮闘するも、軍の連携がはかどらず小早川秀秋らの裏切りにも遭って大敗を余儀なくされる。撤退中に田中吉政に捕らえられ、小西行長、安国寺恵瓊らと共に京都六条河原にて処刑された。
■主なゆかりの地:滋賀県長浜市

毛利元就の孫「輝元」

毛利元就の孫「輝元」 毛利元就は政治、戦術、謀略、外交のいずれにも手腕を発揮した安芸(広島県西部)吉田郡山城の主である。厳島の合戦では村上水軍の力を借りて陶晴賢の大軍を奇襲攻撃にて破った名将である。
大内、尼子の両大名の間に板挟みとなり、少ない兵力ながらその優れた智略と手腕を発揮して毛利家を中国の大名にまで発展させた有力人物である。
後に孫である輝元が関ヶ原の戦いで総大将を務めることとなるが関ヶ原への出陣はせず、家康への内通者がいることを知った輝元は大坂城に留まり、養子である秀元が名代として関ヶ原へ出陣した。
■主なゆかりの地:広島県安芸高田市

長宗我部家二代目「盛親」

長宗我部家二代目「盛親」 盛親の父である長宗我部元親は軍事、政治の両面に優れた土佐(高知)の名将で、分国法「長宗我部元親百箇条」を制定したことで知られる。わずか10年で四国全土の覇者となるが、時代背景に恵まれず秀吉の大軍の前に成す術なく降伏し、その後は秀吉に忠実に従い傘下の大名となる。小田原攻めの際には軍艦大黒丸に乗り土佐水軍を率いて海上を封鎖するなどの功績を残している。
後に2代目を継いだ盛親が関ヶ原の戦いで西軍に加勢するも、戦後には浪人となり大岩幽夢と名を変え京都の寺子屋の師匠にまで身分を落とした。
大坂の陣では大坂五人衆の一人として冬の陣で活躍するが、夏の陣で敗れこの世を去ることとなる。
■主なゆかりの地:高知県高知市長浜、高知県高知市浦戸、高知県南国市

薩摩が生んだ勇将「島津義弘」

薩摩が生んだ勇将「島津義弘」 島津義久の弟で島津家第十八代当主である。戦国乱世に名を残す薩摩の猛将で、文禄・慶長の役の際にはその勇猛果敢な姿から「鬼石曼子」と呼ばれ恐れられていた。
関ヶ原の戦いにはわずか1500の軍勢で参陣し、撤退の際に行った前進退却は「島津の前退」と呼ばれ、その凄まじさは時代を超えて今もなお語り継がれている。
鹿児島が生んだ薩摩の英雄として、現在でも鹿児島市内の銘菓や宿では島津家の家紋が使用されている。
■主なゆかりの地:鹿児島県鹿児島市、鹿児島県日置市、加治木町、姶良町