【大阪 大坂編】「大坂城と太閣さん」天下統一の後先


【大阪 大坂編】「大坂城と太閣さん」天下統一の後先

太閣さんの土木工事

太閣さんの土木工事 秀吉が天下統一の出発地点として選んだのが「大坂城」である。現代でも大阪府民にとって秀吉は「太閣さん」という呼び名で親しまれている。ではなぜ、大阪府民にこれまで強く根付いているのか、それは「大阪の生みの親」だという恩義の要素も強いのではないかと私は思う。
さかのぼる事1583年9月、秀吉は大規模な「普請(建築工事。道・橋・水路・堤防などの土木工事)」を開始する。着手した当時は3万人ほどの人員で取り組んでいたのであるが、次第にその数は増え、5万人に達したという。
当時の堺の総人口が5万人であったため、普請のスケールの大きさは余程のものであった。
大坂は淀川、大和川から流入する土砂で形成されるデルタ地帯(三角形の地形)なので、土地が平坦で低湿なこともあり河川の流速も遅く、汚水や雨水の排除には昔から悩まされていた。
そこで秀吉は、「堀川」と呼ばれる人工の運河を開削(開拓)し、同時にそこから出た土砂で土地の嵩上げ(今までよりも高い位置にする)を行い町屋の敷地を改善した。

太閣下水

太閣下水 汚水や雨水の排除に取り掛かった秀吉は、下水工事に取り掛かることとなる。
町の建物は、玄関は北向き、後にある建物はその逆を向いており背中合わせにして並んでいた。そこで北半分と南半分の境目に溝を作ったのである。要するに、それぞれの建物の背中(裏側)同士が接する部分に下水溝を造ったのである。
この下水溝のことを建物の背中合わせの部分を割るようにして掘られたことから「背割下水」、または太閤秀吉にちなんで「太閤下水」と呼ばれている。
これにより各家庭の生活排水は家の裏手にある太閤下水に流されて、そこから東横堀川または西横堀川に排水され、さらには大川へと放流されるのである。
すなわち、太閤下水が現在の下水枝管の基礎を造り、両横堀川が幹線下水道となっている。これに合わせ区画整理にも着手し、市中は碁盤目状に整えられ、大阪城に向かう道がメインストリートだったため現在でも東西路は広くなっている。このことから建物は、メインストリートである東西路に面して建てられることが多くなったのである。

滅亡へのプロローグ

滅亡へのプロローグ 1585年、天下取りの出発地として秀吉によって築城された大坂城であるが、豊臣家最後の場所も大坂城である。 方広寺の釣鐘事件により徳川との関係が悪化した豊臣家は、戦へと巻き込まれていく。1614年に起きた「大坂冬の陣」である。 秀頼は諸国の大名に味方するよう呼びかけたが参陣した大名は皆無で、集まって来るのは関ヶ原の戦で主を失った浪人ばかりであった。延5万人ほどが集まったという。そんな中、秀頼と共に武器を持ち立ち上がる強い味方もいた。 四国の覇者である長宗我部元親の息子、長宗我部盛親や経験豊富な後藤又兵衛、毛利勝永、六文銭の真田幸村、明石全登ら大坂五人衆と呼ばれた強者どもであった。また仙石秀範、大谷吉治、塙直之などの大物浪人も参陣した。

冬の陣

冬の陣 1614年11月18日、家康は20万の大軍を率いて大阪城を包囲した。秀頼と家康の攻防戦は決死を極めた。木津川口の戦に始まり、野田の戦、鴫野の戦、今福の戦、福島の戦と豊臣軍は立て続けに敗北する。
そんな矢先、徳川軍に2千人の死傷者を出すというダメージを加えた人物がいた。六文銭の真田幸村である。前田利光、井伊直孝や松平忠直をことごとく討ち負かした。
真冬の寒さもあり長期戦になることを恐れた家康は秀頼に和平を提案するが、秀頼の回答は遅かった。
その後、城に籠った秀頼に痺れを切らせた家康は、大阪城の天守を目掛け大砲を放つのである。これが命中し豊臣家の侍女が数名死亡すると、その恐怖から淀殿(秀頼の母)が和平を受け入れるよう進言する。
大坂城の本丸だけを残し、二の丸、三の丸は破壊、外堀は埋めることを条件に同年12月19日、和平は成立した。また、大野治長、織田有楽斎(信長の弟)の両者が息子を人質に出すなどの条件も付け加えられ豊臣家はこれを承諾した。

家康の挑発

家康の挑発 冬の陣から1年が経過しようとしていた頃、家康が不穏な動きを見せる。
大坂城の二の丸、三の丸を破壊した徳川方は、和平の条件には記されていなかった外堀以外の全ての堀を埋める工事を豊臣方に無許可で進めたのである。
秀頼が抗議を行うものの、工事は中止されず徳川方は要領の得ない回答をするのみで、結局工事は終了し本丸だけが残る裸城となってしまった。
このことがきっかけとなり1615年、戦国時代最後の戦いとなる「夏の陣」が幕を開けるのである。

夏の陣

夏の陣 裸城になった大阪城に立て籠ることはさすがに出来ないと判断した秀頼は城外での決戦を決意するが、母の淀殿が引き止めたため城に待機することとなった。
1615年5月5日、二条城に兵を集めていた家康は生涯最後の出陣をする。総大将は徳川2代目を継いだ秀忠が務めた。
5月6日、道明寺の戦により後藤又兵衛を失うと、八尾、若江の戦では長宗我部盛親を失うこととなる。さらに5月7日、天王寺の戦では真田幸村を失い、敗北は確かなものとなっていた。
劣勢を強いられた豊臣方の兵や指揮を執っていた武将が次々と大阪城へ退却してくると、それに合わせて徳川軍も雪崩のように城内へ攻めてきたのである。
その後、深夜になって味方の内応(裏切り)から天守が炎上すると、豊臣秀頼、淀殿母子は隠れていた山里丸内の部屋で自ら命を絶った。後を追うようにして大野治長、毛利勝永、速水守久、荻野道喜、真田幸昌、竹田永翁、大蔵卿局ら重臣も自害して「夏の陣」は幕を閉じるのであった。
この戦いは豊臣家の滅亡を意味する共に、戦国の世を終わらせる最後の戦いでもあった。

大阪城 大阪城
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豊国神社 豊国神社
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[見どころ]豊臣秀吉、秀頼、秀長(秀吉の弟)を祀った神社である。

大阪市下水道科学館
住所:大阪市此花区高見1-2-53
お問合せ先:06-6466-3170(案内係まで)
[見どころ]太閣下水の仕組みを通して、大阪の下水工事について歴史を学べる。