現存-天守閣 現存十二城 「国宝 四つの名城」


現存-天守閣 現存十二城 「国宝 四つの名城」

国宝に指定された四つの名城

国宝に指定された四つの名城 戦国時代の城は「山城」と呼ばれ、小規模な山の上に作られた。防御機能に重点を置き、戦の要としてその役割を果たしていた。また、目立つような造りではなく現在では原型を留めている遺跡はほとんど無く「城跡」として残されているものが多い。
観光地などで見かける天守閣は安土桃山時代(1593年〜)以降の城で「平山城(平城)」と呼ばれるものである。平地に城が建てられ、軍事や政治の中心となっていた場所である。
山城に比べれば規模も大きく、当時は石垣や土塁の上に天守閣や櫓(やぐら)が立ち並び、周囲を威圧する存在であった。江戸時代には170余あったと言われる天守閣も今では12城しか現存していない。
その中でもまずは、国宝に指定されている4つの城をご紹介させていただきたいと思う。

世界文化遺産「姫路城」

世界文化遺産「姫路城」 鎌倉時代の末期、播磨(神戸)の上郡の豪族であった赤松則村は1333年、後醍醐天皇に味方して、姫山に集結させた千二百騎の部隊を京都に向かわせた。その13年後に則村の次男である貞範が姫山に小さな山城を築くこととなる。これが姫路城の起源であるとされている。
1567年より姫路城の城主であった黒田孝高(官兵衛)は、中国地方の毛利氏討伐の拠点として織田信長に姫路城を差し出した。1580年に入城したのが豊臣秀吉である。その後1年かけて山城を3層の本格的な天守閣へと改築した。
秀吉がこの世を去り、関ヶ原の合戦後、家康の次女を妻とする池田輝政が城主となると、秀吉の建てた姫路城を取り壊し、1601年から8年の歳月をかけて5層の天守閣を持つ城を築き上げるのである。(5層6階、地下1階)
1993年には国宝に指定され2009年秋から5年半かけて大規模な改修が行われた。こうして現在の姫路城に至った。

姫路城 姫路城
住所:兵庫県姫路市本町68
お問合せ先:079-285-1146(管理事務所まで)
[見どころ]
国宝と指定されている建造物は、大天守・西小天守・乾小天守・東小天守・「いろは」の渡櫓・「に」の渡櫓などである。
重要文化財として指定されている建造物は74棟あり、主に化粧櫓・ニの櫓・折廻り櫓・備前門・水の一門・水の二門・菱の門・「いろはに」の門などがあげられる。

北アルプスの重鎮「松本城」

北アルプスの重鎮「松本城」 1504年、信濃(長野)守護である小笠原貞朝が家臣の島立貞永に築城させ、深志城と名づけたのが起源である。
1550年には武田信玄が小笠原長時を攻め追放すると馬場信春(信房)を入城させる。その後、武田家の信濃国経営の重要拠点となった。
1582年に武田家が滅亡し、本能寺の変の直後に起こった天正壬午の乱により、徳川家康が信濃の領地を得ると、1583年には家康の家臣となった小笠原貞慶(貞朝の孫)が城主となり「松本城」へと改名する。
1590年になると松本藩初代藩主の石川数正が城主となり、その三年後に2代目藩主となった石川康長によって天守の工事が始まる。その後1613年から再び小笠原家の居城となる。

松本城 松本城
住所:長野県松本市丸の内4-1
お問合せ先:0263-32-2902(管理事務所まで)
[見どころ]
松本城は黒と白の対比が美しく、天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓の5棟が国宝に指定されている。豊臣方の城で家康を監視するための拠点とされていたため戦略的要素が取り込まれていたが、約40年後には徳川家光により辰巳附櫓と月見櫓が増築され優雅な造りとなった。

明治天皇に救われた「彦根城」

明治天皇に救われた「彦根城」 1602年、近江(滋賀)佐和山城主の井伊直政が別地に築城を決意するのだが、関ヶ原の合戦で受けた傷が原因で死没すると、長男の井伊直継が城主となった。1603年から琵琶湖と中山道に挟まれた小山に築城を開始し、19年後に完成したのが現在の彦根城である。
明治に解体の危機に晒されるが、1878年10月、北陸巡幸を終えて彦根を通った明治天皇が「取り壊すことなかれ、保存するように」と大命を下したのである。
その他にも諸説はあるが、いずれにせよ明治天皇によって取り壊しを免除されたことには間違いない。

■彦根城 彦根城
住所:滋賀県彦根市金亀町1-1
お問合せ先:0749-22-2742(管理事務所まで)
[見どころ]
天守閣が国宝に指定されており、西の丸の三重櫓・天秤櫓・佐和口多聞櫓が重要文化財となっており御馬屋は他に例を見ない珍しい遺構となっている。

国宝最古の天守閣「犬山城」

国宝最古の天守閣「犬山城」 犬山城は1537年に織田信康(信長の叔父)によって建てられ、天守が現存する城の中で日本最古の建造物となっている。
信長の時代となれば1547年には家臣の池田恒興が入城し、信長がこの世を去り織田信雄が世継ぎを務めると家臣である中川定成が城主となった。やがて秀吉政権下の時代がやってくると1584年には小牧長久手の戦いが勃発し、豊臣方に付いた池田恒興の手によって犬山城は秀吉の支配下となり本陣が構えられた。
その後も小牧山城に陣を構えた家康と睨み合いが続くのだが、しばらくして両者の間で和解が成立すると犬山城は織田信雄に返還されるのであった。
現代に至るまで犬山城は地震や台風による被害を受けながらも、幾度かの改修を行うことで、天守、城門、櫓などの建造物は戦国時代から現存したままとなっている。

犬山城 犬山城
住所:愛知県犬山市犬山北古券65−2
お問合せ先:0568-61-1711(管理事務所まで)
[見どころ]
犬山城は4階建ての地下2階で外観だけを見れば三層の城となっている。天守閣は国宝に指定されており、別名「白帝城」とも呼ばれている。
亀の甲羅に桃が描かれた魔除けや、侵入者を防ぐための石落としなど見どころ満載である。せっかく犬山城に来たのなら「木曽川」の散策や城下町の遊覧を楽しんでいただきたい。本町通り、大本町と余坂辺りが整備されており、寺社や飲食店も点在している。