【長野県 川中島偏】上杉三太刀「八幡原の激戦」


【長野県 川中島偏】上杉三太刀「八幡原の激戦」

第四次合戦「八幡原の戦い」前編

第四次合戦「八幡原の戦い」前編 1561年9月10日、朝霧が晴れる頃、信玄は驚くこととなる。居るはずのない上杉軍が目の前(八幡原)で陣を張り攻撃態勢を整えているのである。政虎は、猛将である柿崎景家を先頭にして武田軍に次々と襲いかかった。
武田軍は完全に裏をかかれた形となり上杉軍の攻撃に応戦するものの、信玄の弟である信繁をはじめ、山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らの有力人物が討たれると窮地に立たされるのであった。
激戦を繰り広げる中、遂に政虎が信玄の構える本陣へと斬り込みをかけるのである。
放生月毛(名が高い馬)にまたがり、小豆長光(名刀)を振り上げた政虎は大将の椅子に座る信玄を3回斬りつけた。信玄は軍配団扇(ぐんばいうちわ)を持って政虎の攻撃を防ぐが肩に傷を負ってしまうのである。この時、信玄の持っていた軍配団扇には7つの傷跡がくっきりと残されていたという。

第四次合戦「八幡原の戦い」後編

第四次合戦「八幡原の戦い」後編 政虎の攻撃を回避しようと信玄の供回り(護衛)が駆けつけた。その時に信玄の危機を救ったのが「原虎吉」である。虎吉の突き出した槍に邪魔され、政虎は惜しくも信玄を討ち損なったのである。
その頃、政虎に出し抜かれ、誰もいない妻女山に攻め込んでいた高坂昌信、馬場信房が率いる武田一軍は信玄が軍を張る八幡原に急いで引き返していた。
午前12時頃、武田一軍、八幡原に到着。信玄の率いる本軍は上杉軍の攻撃に耐えており、上杉軍は挟み撃ちされる形となった。形勢が不利になった政虎は、兵を引き犀川を渡って善光寺へ退却し、信玄も午後4時には追撃を止め八幡原に兵を引いた。
上杉軍は川中島北の善光寺に配置していた兵と合流して、越後国へと帰還し合戦は幕を下ろした。

八幡原の傷跡

八幡原の傷跡 この戦による死者は、上杉軍が3千余、武田軍が4千余と記されている。互いに多くの死傷者を出した激戦となった。『甲陽軍鑑』(史実)はこの戦を「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」と記している。合戦後の書状でも、両軍が勝利を主張していた。
ただ、武田軍に至っては、最高幹部である副将の武田信繁、諸角虎定が戦死しているのに対し、上杉軍の幹部に戦死者はいなかった。戦術的には上杉を賞賛する声も上がった。しかし上杉側の被害も図り知れないものがあり、川中島四次合戦後の「関東出兵」では後北条勢を相手に戦うこととなるのだが、思うような戦いが出来ずに苦戦するのである。いずれにせよ、明確な勝敗がついた合戦ではなかった。

第五次合戦「塩崎の対陣」

川中島の戦いの最終戦は1564年、上杉輝虎(上杉政虎1561年に将軍である足利義輝の一字を授かり改名)は川中島に出陣するが、武田信玄は決戦を避けて塩崎城(長野市篠ノ井)に陣を張り、互いに様子を伺うのみで合戦には至らず終了した。
輝虎、信玄、2ヶ月に渡り対陣し、両者ともに川中島から引き上げるのであった。これが史実に記されている5度に渡り行われた「川中島の戦い」の結末である。

葛尾城跡
住所:長野県埴科郡坂城町大字坂城
お問合せ先:026-275-6653 (観光案内まで)
[見どころ]1553年、川中島合戦の序章となった「八幡の戦い」の舞台である。

荒砥城跡(城山史跡公園)
荒砥城跡(城山史跡公園)
住所:長野県千曲市大字上山田3510-7
お問合せ先:026-275-6653 (観光案内まで)
[見どころ]1553年9月、一次合戦で上杉軍が落城させた城跡である。

■犀川(さいがわ)
住所:長野県長野市丹波島3丁目
お問合せ先:026-224-8316 (観光案内まで)
[見どころ]1555年に起きた二次合戦の舞台である。

■横山城跡
住所:長野県長野市箱清水
お問合せ先:026-224-8316 (観光案内まで)
[見どころ]二次合戦の際に長尾景虎が本陣を構えた拠点地である。

■旭山城跡(旭山山頂)
旭山城跡(旭山山頂)
住所:長野県長野市平柴
お問合せ先:026-223-6050 (観光案内まで)
[見どころ]二次合戦の際に長尾景虎が落城させた城である。

善光寺
善光寺
住所:長野県長野市長野元善町491
お問合せ先: 026-234-3591 (観光案内まで)
[見どころ]1557年に起きた三次合戦「上野原の戦い」に上杉軍が出陣した場所である。

■葛山城跡(葛山)
住所:長野県長野市芋井鑪
お問合せ先:026-223-6050 (観光案内まで)
[見どころ]長尾景虎が築城。武田の旭山城に向かい合わせて建てられ重要な前線拠点であったが、三時合戦で武田軍に落城される。

■飯山城跡
飯山城跡
住所:長野県飯山市飯山
お問合せ先:0269-62-3111(観光案内まで)
[見どころ]長尾景虎が築城。三次合戦で武田軍が攻撃を仕掛けようとした城である。

妻女山(展望台)
住所:長野県長野市松代町岩野
お問合せ先:026-224-8316 (観光案内まで)
・上杉謙信槍尻之泉
[見どころ]妻女山の麓にあり、上杉謙信が槍を地面に突き立てたところ、そこから水が湧いてきたといわれている。四次合戦の際、始めに陣を構えた場所でもある。
・謙信鞍掛の松、会津比売神社
[見どころ]山麓に位置する会津比売神社に必勝を祈願したとき、乗馬の鞍を掛けたことから名づけられた。

■雨宮の渡し跡
雨宮の渡し跡
住所:長野県千曲市雨宮
お問合せ先:026-275-1753(千曲市役所観光課)
[見どころ]武田軍の裏をかき、密かに妻女山を下る際の通り道となった場所である。

川中島古戦場(八幡原史跡公園)
川中島古戦場(八幡原史跡公園)
住所:長野県長野市小島田町
お問合せ先:026-223-6050 (観光案内まで)
川中島の戦いにおいて最大の激戦となった場所である。四次合戦「八幡原の戦い」。
[見どころ]
・八幡原本陣跡
妻女山を密かに下り、武田軍に奇襲をかけた場所である。
・謙信、信玄、一騎討ちの像
謙信が信玄に斬りかかる姿を再現した像。放生月毛(名が高い馬)にまたがり、小豆長光(名刀)を振り上げた政虎と、軍配団扇でそれを防ぐ信玄。
・首塚
海津城主である高坂弾正(武田方)が、激戦場となったこの辺り一帯の戦死者6千余の遺体を敵も味方も関係なく手厚く葬った塚の一つである。
これを知った上杉謙信は感心し、塩不足に悩む武田氏に対して、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と塩を送り、この恩に報いたといわれている。戦国の世における謙信の美学と称えられ、「敵に塩を送る」という言葉が生まれた。(※一部において後世の創作話と言われている)
・執念の岩
川中島古戦場(八幡原史跡公園)(執念の岩)
謙信を取り逃がし悔しがった原虎吉(武田の家臣)は、傍にあったこの石を槍で突き通したといわれる。
・三太刀七太刀之跡
政虎が信玄を斬りつけるが刀は軍配で防がれた。続く二の太刀(2回目の斬りつけ)で腕を怪我させ、三の太刀(3回目の斬りつけ)で肩に傷を負わせた。後で信玄の軍配を調べたところ刀の斬り跡が7つも残っていたため、三太刀七太刀と名付けられたのである。
[そのほか]八幡社・逆槐(さかさえんじゅ)

■大峰城跡・謙信物見の岩(大峰山)
大峰城跡・謙信物見の岩(大峰山)
住所:長野県長野市長野
お問合せ先:026-224-8316 (観光案内まで)
[見どころ]長尾景虎が築城。川中島合戦の最前線であり守備陣地としても重要な役目を果たしていた場所である。

■髻山観音清水(髻山城跡)
髻山観音清水(髻山城跡)
住所:長野県長野市若槻西条
お問合せ先:026-275-6653 (観光案内まで)