【京都 東山編】秀吉無念の鐘の音「秀頼と方広寺」


【京都 東山編】秀吉無念の鐘の音「秀頼と方広寺」

家康との溝

家康との溝 秀吉がこの世を去ってから17年後の1615年、豊臣家にとって重大な事件が起きる。事の発端は徳川家康と豊臣家の間に角質が生じたことから始まる。
豊臣家の2代目を継承した秀頼は家康から伺候(傍で仕えること)を要求されるが再三にわたりこれを拒んできた。1611年、さすがに分が悪くなってきた秀頼は加藤清正や浅野幸長を護衛につけて二条城にて家康と面談を行うこととなる。これは後の話であるが、家康は秀頼と対面した際、秀頼が想像以上にたくましい青年だったことから徳川家の将来に危惧(恐れ)を感じたという。
1614年、それが形となって現れることとなる。「方広寺の鐘銘事件」である。
1603年に江戸幕府を開いた徳川家にとって最後の悩みは政権の完全確立であった。そのため政権の確立を拒む可能性がある豊臣家の存在は脅威であった。

秀頼の孤立

秀頼の孤立 豊臣家の重心である加藤清正が1611年8月に病死すると、2年後には浅野幸長も他界する。有力な家臣を失った豊臣家は次第に孤立していくのであった。
徳川家への危機を感じた秀頼は関ヶ原の戦いで主を失った浪人を兵として雇い戦備を整えた。また、幕府(徳川)への許可を得ず朝廷に官位を奏請(天皇に直接要求)するなど、家康への挑発行為とも取れる行動を起こしてしまう。これによって両者の間に決定的な溝を作ってしまうこととなる。
1614年、家康は豊臣攻めを決意する。きっかけは豊臣家が再建した「方広寺」に吊るされた鐘であった。釣鐘には「国家安康」「君臣豊楽」の文字が記されており、これを知った家康は、「家康を分断し豊臣家を繁栄させようという暗示である」と決め付け、言いがかりをつけてきたのである。
この一件で徳川との関係は瞬く間に悪化し、戦へと発展していく。決戦の舞台は秀頼の居城である大阪城となった。史実に記される「冬の陣」が幕を開けるのである。

方広寺 ■方広寺
住所:京都市東山区正面通大和大路東入茶屋町527-2
お問合せ先:075-561-1720(案内係まで)
[見どころ]秀吉によって建立され、秀頼によって再建された寺である。

豊国神社 豊国神社
住所:京都市東山区大和大路正面茶屋町530
お問合せ先:075-561-3802(案内係まで)
[見どころ]秀吉を祀る神社で、参道にある唐門は伏見城の城門の一つで建造されており、国宝に指定されている。宝物館には秀吉にゆかりの深い遺品が保管されている。

天得院 天得院
住所:京都市東山区本町15-802
お問合せ先:075-561-5239(案内係まで)
[見どころ]秀頼の依頼により方広寺の鐘に「国家安康」「君臣豊楽」の文字を作成した「文英清韓(住職)」の寺である。家康によって取り壊されたが1789年に再建されている。

高台寺 高台寺
住所:京都市東山区下河原町526
お問合せ先:075-561-9966(案内係まで)
[見どころ]秀吉の正室である北政所ねねが、1606年に秀吉の魂を弔う為に建てた寺である。観月台や茶室、枯山水の庭などは「日本のわびさび」を感じさせてくれる。

圓徳院 圓徳院
住所:京都市東山区高台寺下河原町530
お問合せ先:075-525-0101(案内係まで)
[見どころ]秀吉の正室である北政所ねねが1624年までの余生を過ごした場所である。

二条城 二条城
住所:京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
お問合せ先:075-841-0096(案内係まで)
[見どころ]秀頼と家康が対面した場所である。世界遺産に指定されている。