【静岡県 浜松編】生涯最大の負戦「三方ヶ原の戦い」


【静岡県 浜松編】生涯最大の負戦「三方ヶ原の戦い」

甲斐の虎、現わる。

甲斐の虎、現わる。 29歳の家康の前に生涯最大の壁が立ちはだかる。甲斐の虎「武田信玄」であった。
関ヶ原の戦いにて信濃(長野)の領地を手中にした信玄は、駿河(静岡)へと侵攻し今川家の領地を収めると、家康の領地である遠江に侵攻を開始するのである。こうなれば信玄との戦は避けられなくなってくる。
信玄は3万2千人の武田軍を総動員し、怒涛のごとく攻め立てるのであった。本来であれば小さな城を1つ落とすのにも1ヶ月近くはかかるものだ。ところが武田軍は平均にして3日ほどで次々と城をなぎ倒していく。
一方の徳川氏の最大動員兵力は1万5,000人。しかもその頃、三河国(愛知県東部)には武田方に味方する「山県隊」が同時に侵攻していたため遠江防衛のために動員できた兵は8千人余であった。
さらには盟友を結んでいた信長は「信長包囲網」による近畿各地の反乱鎮圧に追われており、家康への支援は僅かなものだった。最終的に家康に援軍を送ったのは12月になってからだった。

西上作戦

西上作戦(山県昌景の画像) 信玄は武田軍本隊2万人、山県昌景の軍5,000人、秋山信友の軍5千人に別け、遠江、三河国、美濃の三路を同時に侵攻し権力と戦力を見せつけるのであった。世に言う西上作戦(京都へ向かう)である。
敵対であった北条氏康の死をきっかけに北条方と同盟を結んでいた(甲相同盟)信玄は北条軍の援軍も合わせると本隊は2万2千にも膨れ上がっていた。さすがに家康も戸惑ったであろう。かたや家康は信長からの援軍を受けても1万1千であった。
1572年12月12日、信玄は軍を引き連れ二俣城を出発した。家康は信玄の西上(京都へ進行する)を阻止する為に織田の援軍と徳川軍を引き連れて浜松城を出発する。武田軍が通過すると予想される都田、金指(浜名湖)付近で待ち伏せしたのだ。
ところが、信玄は西へは向かわず、信州街道(秋葉街道)を南へと向かったのである。その方向には家康の居城である浜松城があった。慌てた家康は浜松城に引き返し武田軍が攻めてくるのに備えた。

1572年12月22日

1572年12月22日 ところが武田軍は浜松城まで下る途中、姫街道(静岡県磐田と愛知県豊川を結ぶ道)を北へ向け浜松城を通り過ぎ、「三方ヶ原」(浜松市北区)へと進路を変えた。信玄は用心深い家康の性格を利用し、欺いたのである。家康は信玄の作戦に完全に乗せられてしまった。
これに気づき慌てた家康は織田の援軍と徳川軍を引き連れて武田軍を攻めるが、兵力、戦術に信玄に敵うはずもなく退却を余儀なくされた。わずか2時間の合戦であったが、武田軍の死傷者200人に対し、徳川軍は2,000人の死傷者を出した。
また、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵といった有力な家臣を始め、二俣城の戦いでの恥辱を晴らそうとした二俣城主の中根正照、青木貞治や、家康の身代わりとなった夏目吉信、鈴木久三郎といった家臣を失った。信長も平手汎秀を失うこととなった。
これが1572年12月22日に起きた「三方ヶ原の戦い」である。信玄は家康が退却するとさらに西へと軍を進め京都を目指すのであった。

家康の空城計

家康の空城計 三方ヶ原の戦いにおいて家康は討ち死に寸前まで追い詰められる。しかし、夏目吉信や鈴木久三郎が身代わりとなり、成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛といった僅かな供回り(護衛)を引き連れ浜松城へと帰還した。
浜松城へ到着した家康は「空城計」を実行する。家康が行った空城計は、全ての城門を開け、城の敷地内で篝火(夜間の警護に備えて焚く火)を焚くという策であった。
空城計とは言わば心理戦で、自分の陣地に敵を誘い込むような状態を作ることで敵の警戒心を誘う戦術の一つである。家康は、悶々と篝火を焚いて自ら敵を誘い込むような状態を作ることで、敵が優秀で用心深い指揮官であれば逆に警戒すると考えたのである。
この時、家康は「顰像(しかみ像)」を描かせている。顰像(しかみ像)とは、苦渋の表情をした家康の肖像画である。※「徳川家康三方ヶ原戦役画像」がこれにあたる。

信玄の死

信玄の死(徳川家康三方ヶ原戦役画像) やはり武田軍は攻めてきた。追撃してきたのは山県昌景の率いる軍である。しかし山県軍は、家康の空城計に警戒心を煽られ動揺していた。城内に突入することなく、そのまま引き上げていったのである。
それどころか西上する(京都へ向かう)はずの信玄が軍を引き連れ信濃(長野)へと引き返したのである。
「何故じゃ、なぜ信玄は京都へは向かわず長野へと引き返したのだ?!」
家康のこの言葉に家臣が答えた。
「家康様、信玄は日頃より病を抱えていたようで、その発作が出たため京都へは向かわず長野へと引き返したようです。」
そして数日後、家康のもとに家臣が迫りこう言う。
「信玄が病死したとのことです。」
戦国最強と言われた武田の大将がこの世を去ったことにホッと胸を撫で下ろし、家康は一息つくと、
「そうか。惜しい男を亡くしてしまったな。」と決め台詞を吐いた。
まぁ、このやり取りは私の空想に過ぎないが、家康という人物はなんとも強運の持ち主である。

強運の持ち主

強運の持ち主 いくつか例に挙げるとするならば、まずは幼少期である。
織田に人質に取られ広忠との交渉に役に立たないと分かったあとも殺されずに済んでいる。そして今川家に囚われた時も粗末な扱いは受けず事なきを得ている。
そして、桶狭間の戦いでは織田軍の追撃を回避し、今川家とも縁を切ることができた。本能寺の変では供回り(護衛)に服部半蔵(家康に仕えた武将)がいたことで伊賀越を成功させている。
そして三方ヶ原では大敗を喫するも討ち取られることはなく、信玄の死によって西上作戦は消滅した。ただの「運」と言って片付けてしまっていいものかと思うほど「運」に恵まれている。
やはり天下人。運が度重なるということは、天が定めた男ということになるのだろうか。

清瀧寺 清瀧寺
住所:静岡県浜松市天竜区二俣町二俣1405
お問合せ先:053-922-0033(案内係まで)
[見どころ]家康の嫡男(跡取り候補)である「岡崎三郎信康」の魂を弔った寺である。1579年9月15日、信康は二俣城にて自刃して 21歳の若さでこの世を去った。

■三方原古戦場
住所:浜松市北区根洗町784
お問合せ先:053-411-6687(緑地協会まで)
[見どころ]武田軍と「三方ヶ原の戦い」が行われた合戦地跡である。

三方原神社 ■三方原神社
住所:静岡県浜松市北区三方原町561
お問合せ先:053-437-0184(案内係まで)
[見どころ]家康を祭神に祀った寺である。

浜松城 浜松城
住所:静岡県浜松市中区元城町100-2
お問合せ先:053-453-3872 (案内係まで)
[見どころ]信玄との戦に向けて1570年から拠点とした城である。

五社神社 諏訪神社
住所:静岡県浜松市中区利町302-5100-2
お問合せ先:053-452-3001 (案内係まで)
[見どころ]家康を祀った寺である。

宗源院 ■宗源院
住所:静岡県浜松市中区蜆塚1-20-1
お問合せ先:053-452-4443(案内係まで)
[見どころ]三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなって没した成瀬藤蔵正義、旗手として討死した外山小作正重、遠藤右近などの墓がある。

■犀ヶ崖古戦場
住所:静岡県浜松市中区鹿谷町25-10
お問合せ先:053-472-8383(案内係まで)
[見どころ]三方ヶ原の戦いの後、夜営していた武田軍に夜襲をかけた場所である。

誕生井戸 ■誕生井戸
住所:静岡県浜松市中区常盤町
お問合せ先:054-221-2252(文化観光部まで)
[見どころ]徳川家2代目の将軍となる徳川秀忠が誕生した地で、産湯に使用した井戸の跡を示す石碑が建っている。