天守閣 現存十二城 「名城 八つの天守」(四国編)


天守閣 現存十二城 「名城 八つの天守」(四国編)

自然と一体化した美築「丸亀城」

自然と一体化した美築「丸亀城」 丸亀城は室町期〜江戸期にかけての城で、別名「蓬莱城」、「亀山城」と呼ばれている。
1468年に奈良元安が支城として築いたのが起源と言われている。戦国期には、長宗我部元親の四国統一で一時廃城となるが、1587年に生駒親正が豊臣秀吉から讃岐(香川)を拝領し、高松城の支城として1597年から5年を費やし再築城した。築城後、親正の息子である一正が城主となった城が「丸亀城」である。

しかし1615年の一国一城令で再び廃城となり、生駒氏が転封… しかし1615年の一国一城令で再び廃城となり、生駒氏が転封されると讃岐が二分化され西讃岐の大名として1641年に山崎家治が入城するに至った。時を同じくして丸亀藩が成立し、藩主となった人物も家治である。
その後1658年に城主を京極氏へと移すのだが、2年の月日を経て完成したのが現在の天守閣である。天守閣のほか大手一の門、二の門が現存している。

丸亀城[1597年着工]
住所:香川県丸亀市一番丁
お問合せ先:0877-24-8816(商工観光課まで)

奇跡の名城「高知城」

奇跡の名城「高知城」 自然災害や明治維新、戦災など幾多の災難に遭遇しながらも幾度となく危機を回避し、現在に至るまで天守を守り続けた奇跡の城である。
1588年、長宗我部元親は浦戸城を居城としていた。1601年に長宗我部氏に代わって20万石の大名として土佐(高知)に入ってきた山内一豊は大高坂山に築城を始め、3年後に本丸、二の丸を完成させ入城した。共に高知藩初代当主として尽力を注いだ。

三の丸部分まで完成したのは1611年で、その前年には… 三の丸部分まで完成したのは1611年で、その前年には高知へと改名している。一豊時代の天守は1727年に焼失し、現在の天守閣は1747年に再建されたものであるが、大屋根に望楼をのせ、勾欄廻縁(こうらんかいえん)式の慶長期の古風な様式を今も留めている。
大手門、懐徳館(本丸)など建造物も多く、見所の深い名城として名を残している。

高知城[1603年築城1753年再建]
住所:高知県高知市丸の内1-2-1
お問合せ先:088-824-5701(管理事務所まで)

防備の城郭「松山城」

防備の城郭「松山城」 1602年、加藤嘉明が居城とするため勝山に築城したのが起源である。翌年には地名も松山へと改めた。
1627年、加藤嘉明が会津へ転封となると、替わって蒲生忠知が24万石を拝領し城主となった。1634年に蒲生忠知が没すると、大洲藩主の加藤泰興が松山城を預かることとなる。その翌年、15万石を拝領し、松平定行が城主にとなり明治維新に至る。

現存の三層天守閣は落雷で焼失したため、1820〜54年… 現存の三層天守閣は落雷で焼失したため、1820〜54年に再建されたものである。現在天守閣、野原櫓、乾櫓、隠門続櫓、一の門南櫓、二の門南櫓のほかにも七つの門が現存している。
江戸時代最後の城郭建築で、防備手段として最も有効とされる形状で築き上げられている。大天守、小天守、隅櫓を多聞櫓で結んだ典型的な連立城郭で、現存している天守の中で唯一築城主の印として瓦に「葵の紋」が記されている。

松山城[1602年築城]
住所:愛媛県松山市丸の内1
お問合せ先:089-921-4873(総合事務所まで)

泰平の世を象徴する「宇和島城」

泰平の世を象徴する「宇和島城」 941年、藤原純友の乱の時、警固使であった橘遠保が砦を構えたのが起源とされている。
戦国期に入ると1546年に家藤監物、さらに1575年には西園寺宣久が居城としている。1585年からは小早川隆景の支配下となったが豊臣秀吉の九州攻めによる筑前(福岡)へと転封すると、1595年には藤堂高虎が7万石を拝領して入城した。
その後、修築を加え不等辺五角形の特異な縄張りに改められている。1601年に「宇和島城」へと改名した。富田信高を経て、伊達政宗の長男である秀宗が10万石を拝領し1615年に入城する。

当時は17つの城門に33の櫓を備えていたが、現在は1666年に修築… 当時は17つの城門に33の櫓を備えていたが、現在は1666年に修築された天守閣と上立門を残すのみとなっている。
戦国時代を終え、泰平の世に再建されたことから装飾性が高く、伊達10万石を思わせる風情となっている。規模は小さいが御殿建築の意匠が随所に見られ、格式を重んじていたことが手に取るようにわかる。

宇和島城[1666年築城]
住所:愛媛県宇和島市丸の内1
お問合せ先:0895-22-2832(案内係まで)