加藤清正【一本槍に懸けた想い 熊本鬼将軍物語】


加藤清正【一本槍に懸けた想い 熊本鬼将軍物語】

その男、熊本に在り

その男、熊本に在り 1562年6月24日、刀鍛冶の加藤清忠の子として尾張中村(現在の名古屋市中村区)に生まれる。その後1573年には近江長浜城主となったばかりの秀吉に小姓(雑用係)として仕え、3年後には170石を与えられた。清正は秀吉の親戚として将来を期待され、特に可愛がられていた。清正もこれに応え、生涯忠義を尽くし続けた家臣としても有名な武将である。
1582年に本能寺の変が起こると、清正は秀吉に従って山崎の戦いに参陣した。翌年の賤ヶ岳の戦いでは敵将の山路正国を討ち取ると、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3千石の領地を与えられた。
1585年7月、秀吉が関白になると清正は従五位下に就任し、主計頭(国の予算や決算書の作成などをする機関の代表者)に任命される。1586年に始まった秀吉の九州征伐に従い、肥後国領主であった佐々成政が解任(肥後国人一揆)により切腹すると、これに替わり1588年、肥後(熊本)の北半分19万5千石を与えられ「熊本城」を居城とするのであった。

生没:1562〜1611年(享年50才)
幼名:虎之介
尾張中村出身。秀吉の遠戚にあたり、幼くして仕える。
肥後熊本藩54万石の初代当主

難攻不落の熊本城

難攻不落の熊本城 熊本城を居城とした清正は、1591年から城の改修に取り掛かる。これが後世まで伝わる「難攻不落の熊本城」の出発地点である。
1600年頃には天守が完成し関ヶ原の戦いの功績が認められた清正は、肥後一国52万石の領主となる。15年の歳月を費やし城が完成すると、翌年には「隈本」を「熊本」へと改名した。
そもそも何故、清正は熊本城を難攻不落と言われるまで頑丈なものに仕上げたのか。それは、家康への対策であった。秀吉がこの世を去ってから行われた関ヶ原の合戦で家康は、主君であるはずの豊臣家の財力を65万石にまで減らし、一介の大名として扱った。
清正は、「秀頼(豊臣二代目)と家康が戦う日が来る」と、見通していたのである。それゆえ熊本城の構造も難攻不落の堅城として設計し、工事する必要があったのである。
「急斜な石垣」、「鉄串を並べた忍者返し」、「天守や櫓に設けられた石落とし」や「曲輪内(城の内部)は複雑に折れ曲がり」、「石垣の中に抜け道」が仕掛けられていた。

備えあれば憂い無し

備えあれば憂い無し 清正は熊本城の改修が終わると、城の近くに寺を築いた。そしてその寺の門前に桜の木を植え並木道を作り、寺の裏には栗の木を植えた。
家臣が「なぜ寺の周りに桜の木や栗の木を植えたのか」尋ねると、清正はこう答えたという。
「桜は花で楽しませ、栗は実で腹を満たす。表裏二面の心がけは大事である」
寺の表の桜は、参拝しに来た人の目を楽しませ、裏手の栗は、非常食として備えたのである。「栗というのは食の備えになる。いざという時に寺の栗が使える。それに木は薪にもなるゆえ一石二鳥だ」と家臣に教訓し、「備えあれば憂い無し」の心得を説いたという。
また城内には銀杏の木をたくさん植えた。これも非常食である。畳には里芋の茎を使ったり城壁にも保存食を組み込んだりして、さらには敷地内に120箇所の井戸を掘っていた。戦や変事の際には城に立て籠ることを想定した城造りをしていた。

虎退治の清正

虎退治の清正 1592年、朝鮮出兵にまつわる清正の伝説が存在する。秀吉の主力として活躍し、朝鮮の二王子(臨海君、順和君)を捕らえ朝鮮半島を踏破して現在のロシアにまで攻め寄せた功績は有名な話であるが、それとは別に言い伝えられている逸話がある。
それが「加藤清正の虎退治」だ。あるとき清正の陣の近くに虎が現れ、馬を連れ去られたり家臣が殺されたりするなどの被害を受けた。これに激怒した清正は自ら山へ出向き狩りを行うのである。そして1匹の虎と遭遇する。鉄砲を持った家臣たちがこれを撃とうとするが、あえて自ら虎に立ち向かった清正は槍を虎の喉に突きこんで殺害したという。
槍の名手として秀吉から七本槍の一人としても認められた清正であったが、さすがに虎を相手に槍一本で立ち向かうとは恐ろしい人物である。築城や治水などの技術面だけではなく、やはり腕に覚えのある武将ということは間違いないようだ。

「謎の他界」清正、最後の時

「謎の他界」清正、最後の時 勢力を拡大し全国統一を成し遂げた家康は秀頼に臣従する(傍で仕える)よう申し出を出す。これを拒んでいた秀頼も遂に家康と二条城(京都)で対面することとなるのだが、その時の護衛役を務めたのが清正である。また、家康との和解を秀頼に進言したのも彼である。そうするのも無理は無い。すでに徳川政権下であった全国を敵に回すなど、危ない橋を渡るのは得策ではなかったからである。
その矢先、清正は不運に見舞われる。二条城の会見を終え帰国途中の船内で発病し1611年に熊本城でこの世を去るのである。死因は「花柳病」による病死だとされているが、家康の謀略、またはその関係者による毒殺説も存在している。さらに清正の死から2年後、豊臣家の最有力大名であった浅野幸長も同じ花柳病で病死している。
清正、幸長の両名は豊臣家の有力大名として家康が警戒していたのは事実であり、二人が同じ病気で急死したため家康による毒殺ではないかとの憶測も流れたのだが、真実は歴史の奥深くに閉ざされたままでる。清正、享年50であった。

熊本を巡って清正を追いかける

熊本城
熊本城
住所:熊本県熊本市中央区本丸1-1
お問合せ先:096-352-5900(総合事務所まで)

1591年頃から改修に取り掛かり、15年の歳月を費やしようやく完成した難攻不落の名城である。日本三名城にも指定されている。本格的に改修に取り組んだのは1600年からと言われており、1606年に完成している。
「急斜な石垣」、「鉄串を並べた忍者返し」、「天守や櫓に設けられた石落とし」や「曲輪内(城の内部)は複雑に折れ曲がり」、「石垣の中に抜け道」、「昭君之間(秀頼の隠し部屋)」などが有名である。
門や塀、石垣に櫓など難攻不落の城としての配置や仕掛けに注目しながら城内を散策していただきたい。また、「大小天守」や「本丸御殿」に目が行ってしまうが「宇土櫓」にも注目して見物していただきたい。

加藤神社
加藤神社
住所:熊本県熊本市本丸2-1
お問合せ先:096-352-7316(社務室まで)

加藤清正を祭神として祀った神社である。境内には清正が朝鮮出兵の際に記念として持ち帰った太鼓橋が在り、その後の橋造りの原型にしたという。
また、熊本城築城の際に大天守前の銀杏と共に清正が植えたとされる「清正公お手植えの樹」がある。明治42年に名護屋城より移した「清正公の旗立石」も見物できる。

本妙寺
本妙寺
住所:熊本県熊本市花園4-13-20
お問合せ先:096-354-1411(宝物館まで)

1585年に加藤清正の父である清忠の冥福を祈るため、大阪に創建されたのが本妙寺の始まりである。その後1600年に清正が熊本城主になった熊本城下に創建されていた瑞龍院に移された。
1611年に清正がこの世を去ると、遺言により中尾山(水俣市)の浄池廟に清正像を奉安し清正の魂を弔った火災で焼失することとなる。焼失した本妙寺を1614年に移転した場所が現在の本妙寺である。

日本有数の温泉地「熊本」

日本有数の温泉地「熊本」 熊本と言えば日本でも有数の温泉地である。熊本城の近くにも温泉宿や天然温泉を利用した入浴施設が点在している。
また、熊本市内を離れ阿蘇まで足を延ばせば「黒川温泉」や「阿蘇温泉」などもあり、その他にも「人吉温泉」や「玉名温泉」など秘湯や名湯が多数存在する。
清正の名所巡りに合わせて温泉観光を織り交ぜるのも楽しい旅となるのではないだろうか。